神鏡山金蔵院。玉川八十八ヶ所霊場、東国八十八ヵ所霊場
金蔵院の概要
真言宗智山派寺院の金蔵院は、神鏡山東曼陀羅寺と号します。金蔵院は、醍醐三宝院の始祖勝覚僧正が開基となり寛治元年(1087)に創建したといいます。慶長4年(1599)に徳川家康より寺領10石を拝領、多くの末寺を擁する中本寺格の寺院でした。玉川八十八ヶ所霊場3番、東国八十八ヵ所霊場20番です。
山号 | 神鏡山 |
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院号 | 金蔵院 |
寺号 | 東曼陀羅寺 |
住所 | 横浜市神奈川区東神奈川1-4-3 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 東神奈川熊野神社のもと別当 |
金蔵院の縁起
金蔵院は、醍醐三宝院の始祖勝覚僧正が開基となり寛治元年(1087)に創建したといいます。慶長4年(1599)に徳川家康より寺領10石を拝領、多くの末寺を擁する中本寺格の寺院でした。
新編武蔵風土記稿による金蔵院の縁起
金蔵院
西側なり。海道へ3間5尺出はりたり、新義真言宗山城醍醐三宝院末なり。神鏡山東曼陀羅寺と号す。寺領10石の御朱印は慶長4年に賜はりし所なり。醍醐三宝院の始祖勝覚僧正の開基なりと云。本尊阿弥陀作しれず、2尺余の立像なり。本堂10間に7間巽向なり。
鐘楼。文化9年の地震に破壊していまだ造営に及ばず。(中略)
寺中。
寶蔵坊。門を入て右にあり、わづかなる寮なり。古は然るべき子院なりしといへり。
熊野三社。本社1間に9尺、拝殿2間半に4間。いづれも巽向なり。古は青木町の中程なる艮の方の丘にありしを、いつの頃十五日より同き十八日までなり。(新編武蔵風土記稿より)
「神奈川区史」による金蔵院の縁起
開基は、山城国宇治郡醍醐三宝院の勝覚僧正で、寛治元年の創立という。慶長四年二月一〇日徳川家康から一〇石の朱印状を附与された。
正徳二年六月に、熊野三社を熊野権現山から当院の境内に遷宮した。
従来から当院が別当をつとめていた。
文化九年一一月四日保土ケ谷・神奈川地震があって、万治二年五月一三日に梵鐘を新鋳したが、鐘楼が倒壊して、梵鐘も破損した。
嘉永五年五月一七日醍醐寺座主から本尊宝前に飾る菊桐紋章附紫幕と提灯の寄附があり、同日、金紋挟箱、赤網代乗輿の使用が許された。同年一〇月梵鐘を再鋳し、慶応元年一〇月には堂宇を再建した。明治元年一月七日、宿内の大火に境内の熊野神社が類焼した。
神仏混淆禁止令で、熊野神社に境内を分け、別当職を退き、明治二七年一〇月七日、大本山智積院直末となった。
大正一二年九月一日、関東大震災で、大正五年新築した庫裡と嘉永五年一〇月再鋳した梵鐘をつってある鐘楼が倒壊したが被害は僅少の方であった。(「神奈川区史」より)
「横浜市史稿」による金蔵院の縁起
金藏院
位置及寺格
金藏院は、神鏡山東異曼茶寺と號し、神奈川區神奈川町字十番町八百十番地にある。境内は一千五百五十坪。官有地。大本山、京都智積院の直末で、準別格本山の特四級である。
沿革
堀川天皇の御宇、寛治元年 丁卯の創立で、山城國宇治郡醍醐三寶院の勝覺僧正の開基である。慶長四年二月十日に、德川家康から、寺領十石を寄進の朱印狀を附與された。萬治二年巳亥五月十三日、梵鐘を新鑄。正德二年壬辰六月に、熊野三社を村内の熊野權現山から當院の境内に遷宮した。此社は當院開基勝覺僧正が寛治三年に勸請した所で、從來、當院進退の社である。文化九年十一月四日、地震(保土ヶ谷・神奈川地震と云ふ。)に鐘樓が倒潰した。嘉永五年五月十日、醍醐寺三寶院家跡、稱名院兼帶を允され、同月十七日、醍醐寺座主から本尊寶前へ、菊桐紋章附紫幕及び堤橙の寄附、同日、金紋挾箱、赤綱代乘輿の使用を許された。同年十月梵鐘を再鑄。慶應元年十月、伽藍を再建。明治元年一月七日、驛中の大火に、境内熊野神社類燒。神佛混淆禁止の際は、熊野神社と境内を區劃し、同時に別當職を退き、明治二十七年十月七日、大本山智積寺の直末となつた。大正五年、庫裡を新築。大正十二年九月一日、大震災に庫裡・鐘樓が倒潰し、昭和二年七月庫裡、同三年七月、鐘樓を再興した。
備考。元、寺中に寶藏坊と稱する寮があつたが、維新の頃に廢絕した。今、末寺十三箇寺を統持して居る。
本尊
本尊は阿彌陀如來の立像、高三尺。(「横浜市史稿」より)
「神奈川区宿歴史の道」掲示による金蔵院の縁起
金蔵院は、京都醍醐三宝院の開祖勝覚僧正により平安末期に創られた古刹である。その後、徳川家康から十石の朱印地を許された。
「金川砂子」のこの図には江戸後期の様子が描かれている。参道は街道まで延び、金蔵院・熊野神社が境内に並び立っている。本堂前には徳川家康の「御手折梅」と称された梅の古木が描かれている。かつては毎年1月に当院の住職が、この梅の一枝をたずさえて登城するのがならわしであったという。(「神奈川区宿歴史の道」掲示より)
金蔵院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「神奈川区史」
- 「横浜市史稿」