法照山豊顕寺。伊勢七騎の一人多米元益の子息元興が創建
豊顕寺の概要
法華宗陣門流寺院の豊顕寺は、法照山と号します。豊顕寺は、豊橋市多米町の郷土多米元益の子息元興が、先祖菩提のため多米に本顕寺と称して永正12年(1515)創建、多米元益は伊勢(北条早雲)七騎の一人に数えられた勇将で、天文年間(1532~1555)北条氏が関八州を領有した頃には青木の地に城塞を構えていたといいます。多米元興は、のちに連信斉と名乗り三ッ沢に隠棲して本顕寺を移し、豊顕寺と改称したといいます。享保5年(1720)には檀林として学舎5棟、学寮25棟を建設、学徒は300人を下らぬ盛況を極めたといいます。
山号 | 法照山 |
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院号 | - |
寺号 | 豊顕寺 |
住所 | 横浜市神奈川区三ツ沢西町16-1 |
宗派 | 法華宗陣門流 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
豊顕寺の縁起
豊顕寺は、豊橋市多米町の郷土多米元益の子息元興が、先祖菩提のため多米に本顕寺と称して永正12年(1515)創建、多米元益は伊勢(北条早雲)七騎の一人に数えられた勇将で、天文年間(1532~1555)北条氏が関八州を領有した頃には青木の地に城塞を構えていたといいます。多米元興は、のちに連信斉と名乗り三ッ沢に隠棲して本顕寺を移し、豊顕寺と改称したといいます。享保5年(1720)には檀林として学舎5棟、学寮25棟を建設、学徒は300人を下らぬ盛況を極めたといいます。
新編武蔵風土記稿による豊顕寺の縁起
(青木町】豊顯寺
枝郷三つ澤にあり、道よりは半道餘を隔て西にあたれり、日蓮宗越後國蒲原郡本成寺の末、法照山と號す、開山漸巧日時と云、永禄十二年正月寂せり、然るに寺の記録によれば當寺もとは三河國八名郡多米村にありて、本願寺と云てかの地の士多米権兵衛が世々の菩提寺なり、権兵衛長享の頃武術修行の次、伊勢新九郎長氏と交りを結び、共に關東へ下れり、長氏後に相武等を幷呑せしかば、権兵衛かの家人となりて一方の大将を承れり、天文年中よりこの地の領主となりしゆへ、かの本國にありし本顯寺を當所へ引うつして名を豊顯寺と改めしとぞ、今當寺に蔵する開山の筆十界圖裏書に、富木末孫寂照坊日時弟子郷公日有授與之、于時天文廿暦辛亥八月時正武州青木内三澤草庵とあり、當所へ移りしもそれより前にありしなるべし、されば今の開山とする所は、當所へうつりし時の住僧なるべし、本堂八間に七間半、本尊三寶を安ず、東向なり。
三十番神堂。門を入て左にあり、三間に二間半なり。
多米氏墓。門を入て左の方にあり、五重の石塔なり、多米氏元祖の墓なりと云傳ふれども、文字磨滅してよむべからず、過去帳を閲るに天正二年七月三日大旦那勝印俗名多米彦四郎とあり、この人の墓石見えざれば、もしくはその墓なる歟、されども墓石の古色餘の墓に比すれば一段ふるくみゆるときは、元祖権兵衛が墓なるもしるべからず。
多米彌七郎墓。同並の内にあり、これも五重の塔なり、碑面に弘治三年丁巳卯月五日乗尊覺位とあり、この人は周防守長宗が祖父などにや、すべて多米氏の系圖を詳にせずされば其實をしらず。
蓮秀墓。前にいへる二基の間にあれば多米が族の墓なることは論なけれどもほ、過去帳にも法名のみなれば其俗名をしるべからず、蓮秀靈位元龜三年十二月四日と彫れり。
運信斎日領墓。同並にて北のはしにありこれも五重の石塔なり、面に日領靈位天正五年丁丑四月廿五日とあり、過去帳にも同じ年月をのせて、日欽は多米周防守慈父とあり、然れば日欽としるせしは此日領の誤なるべし、俗稱をのせざること惜むべし。
三澤檀林。境内の南の山上にあり享保中現住日珖の僧徒と議して、檀林開闢のことを願ひあけゝるは同四年正月二十七日なり、時に松平對馬守近禎より井上河内守正岑へ達し、許可を得しは明る五年三月六日なり、ここに於て檀越等力を合わせ山を穿ち渓をうつみて五年にして功をなせりと。
門。柱間一丈腕木つくり山上にあり。
講堂。
本院寮。講堂の表通にあり今は廢せり。
玄講寮。講堂の北下表通の西側にあり、九間半に七間。
集講寮。同所の北の側にあり、十一間に四間半なり。
條講寮。講堂の北下裏通北側にあり、十一間に四間半。
自寮。十四棟。
長屋。七軒。(新編武蔵風土記稿より)
「神奈川区史」による豊顕寺の縁起
法照山豊顕寺(法華宗陣門流総本山本成寺末) 三ツ沢西町一六番地の一
沿革 永正一二年一月(一五一五)、三河国八名郡多米村(現在の豊橋市多米町)の郷土多米玄蕃元興が村内に一寺院を建立し、寂照坊漸巧院日時上人を開山に請じて、本顕寺と称し菩提所としたのが当寺の前身であった。共後、元興が小田原北条氏の家臣となって、此の三ツ沢を所領し、老後は入道して連信斉と名乗って、ここに隠楼したので郷里に建立した本顕寺を、三ツ沢に移して法照山豊顕寺と改称した。その時は天文二〇年(一五五一)八月であったという。
元興の子大膳長宗が、青木城主となると父の隠楼の地である三ツ沢の山荘全部を当寺に寄附し、境内は敷地・墓地・山林を併せて五万二千坪の巨刹となって、堂宇を造営し地方では稀に見る雄大な名刹となった。
享保五年九月四日幕府の允許を得て、本宗の壇林として開講式を挙行したが、その規模は学舎五棟、学寮二五棟、学徒は常に三〇〇人を下らぬ盛況を極めたという。
安政五年には客殿・庫裡を再建し、壇林は集講寮その他の建造物を増築して一層宏大な規模をゆうる誇るにいたったが、明治四年、同一八年三月と火災による学寮の数棟の焼失に、大正一二年九月一日の大震災にあい、残る建物の殆どが倒壊によって遂に壇林は廃絶するにいたった。
壇林の盛況当時から桜の名所として、その名は高く観桜の人々、その数は、きびすを接する程であったが昭和二〇年五月二九日の大空襲によって全てを焼失した。ロバート・フオーチュン(一八一三~一八八〇)という植物学者が文久三年出版した『江戸と北京』(三宅馨訳)に当寺の境内にあった横浜十大名木の一であったコウヤヤキ俗に傘松と呼ばれた大樹が書かれて、挿画も描がかれてあるのは現在となっては貴重なものである、その傘松も空襲に焼けて切株だけになってしまった。現在では往昔の桜の名所を再び出現させるために苗木を植林している。(「神奈川区史」より)
「横浜市史稿」による豊顕寺の縁起
豐顯寺
位置
豐顯寺は、法照山と號し、神奈川區靑木町三ッ澤二千三百九十五番地にある。
境内は五萬二千四坪。敷地一千三百二十四坪、墓地七百四十二坪、山林四萬九千九百三十八坪。法華宗本山越後國南蒲原郡本成寺の末寺である。
沿革
後柏原天皇の永正十二年正月、三河國八名郡多米の鄕士多米玄蕃元興、其鄕里多米村に一宇を創建して、本願寺と號し、寂照坊漸巧院日時上人を請じて、開山と爲し、寺田若干を寄附して、菩提所とした。これが當寺の前身である。其後元興、小田原北條氏の部將となり、此三ッ澤の地を領し、老後入道して蓮信齋と號し、こゝに隱棲した。依つて前に鄕里に建立した本顯寺を此地に移し、法照山豐顯寺と改めた。時に天文二十年八月であつたと云ふ。其子大膳長宗、續いて靑木城に居り、父の隱棲所なる三ッ澤の山莊全部を當寺に寄附し、大に堂宇を造營する所があつたので、莊嚴茲に整ひ、地方稀に見るの名刹と爲るに至つた。依つて第二世智存院日慶上人と中興開山とし、長宗を中興開基とする。長宗は深く上人に歸依し、其一男を法弟として、後に法嗣たらしめた。これを日僚上人といつた。享保四年、十三世日理上人の時、本宗檀林設置の議を企て、翌五年、德川幕府の允許を得たので、乃ち山を平らげ、地を闢き、學舍・學寮を建設し、九月四日を以て、開講式を擧行した。當時學舍五棟、學寮二十五棟、學徒常に三百人を下らずといふの盛況を呈したといふ。天保十四年、二十六世妙境院日韶上人、本堂を再興し、安政五年、客殿・庫裡を再建し、檀林は講堂・經堂を始めとして、集講寮・條講察・芝寮・四谷寮・白金寮・下谷寮・麻布寮・玄講寮・西寮・東寮、外八棟の大寮、竝に各寮の副寮、及び鐘樓・物置・湯殿等、參差として檐を竝べ、其規模頗る宏大であつたが、明治四年、囘祿の災に罹つて、學堂一棟、學寮八棟を燒失し、同十八年三月、再び火を失して、學寮數棟を灰燼に附し、大正十二年九月一日、更に大震に遇ひ、殘る建物も亦殆ど倒潰の厄に罹つたので、遂に廢絕の止むなきに至つた。されど本寺の法燈は愈〻輝き、市内屈指の名刹に數へられてゐる。
本尊
木尊は十界曼陀羅及び日蓮上人像である。(「横浜市史稿」より)
横浜市教育委員会文化財課・財団法人横浜国際観光協会掲示による豊顕寺の縁起
当寺は、法照山と号す法華宗陣門流総本山本成寺末の寺院です。
三河国多米村(現在の豊橋市多米町)の郷土多米元興は、先祖菩提のため永正12年(1515)多米村に本顕寺を建立しました。元興の父元益は、伊勢七騎の一人でした。(伊勢はのちに北条氏と称す)元興は天文年間(1532~1555)北条氏が関八州を領有した頃、青木の地に城塞を構えていましたが、のちに連信斉と名乗り三ッ沢のこの地に隠棲して本顕寺を移し、豊顕寺と改称しました。元興の歿後、その子長宗は青木城を領し、元興の隠棲の地を当寺に寄進し、堂宇を造営したので地方には稀な巨刹となりました。
享保5年(1720)本宗の檀林として学舎5棟、学寮25棟を建設し開講式を挙行しました。学徒は300人を下らぬ盛況を極めたといいます。その後も再建・増築をし宏大な規模になりましたが、明治期になり火災による焼失、大正期の地震による倒壊によって談林は廃絶いたしました。
境内には、鷲津(静岡県)の本興寺から根分けした藤を記念しての碑が藤棚の下にあり、また、江戸から保土ヶ谷宿に来宿し、宿内の人々に歌学を教授した山平伴鹿の歌碑があります。多米家歴代の墓は、境内左側にあります。(横浜市教育委員会文化財課・財団法人横浜国際観光協会掲示より)
豊顕寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「神奈川区史」
- 「横浜市史稿」