海岸山良泉寺。宣教房聞海が開基
良泉寺の概要
真宗大谷派寺院の良泉寺は、海岸山と号します。良泉寺は、本願寺第8世蓮如上人に帰依した宣教房聞海が開基、4世良念(慶安元年1648年寂)の代に、現在地に移転、本山から本尊と寺号を授与されて一寺としたといいます。
山号 | 海岸山 |
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院号 | - |
寺号 | 良泉寺 |
住所 | 横浜市神奈川区新町9-3 |
宗派 | 真宗大谷派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
良泉寺の縁起
良泉寺は、本願寺第8世蓮如上人に帰依した宣教房聞海が開基、4世良念(慶安元年1648年寂)の代に、現在地に移転、本山から本尊と寺号を授与されて一寺としたといいます。
新編武蔵風土記稿による良泉寺の縁起
良泉寺
西側にあり。浄土真宗京六条東本願寺末、海岸山と号す。開山を良念と云。此僧慶安元年9月2日寂すと然るに当所を早々せしは良念より五代さきの住僧蓮誉と云ものの時なりといひ傳へてすべて詳なることをしらず。本尊阿弥陀の立像長1尺3寸作しらず。本堂7間に6間半巽向なり。
鐘楼、門を入て右にあり、8尺四方。鐘は近きものにて寛政2年の銘文あり。(新編武蔵風土記稿より)
「神奈川区史」による良泉寺の縁起
口伝によると、鎌倉郡本郷村の郷土某が、本願寺八世の蓮如上人に帰依して僧侶になり、宣教房聞海と称して、小机附近の旧街道筋に草庵を結び、念仏を勤行して往来の人々を感化したことがはじめで、第四世良念の代に、徳川家より境内地の寄進を受けて、現在地に移転し、本山の法主から本尊と寺号を授与されて、始めて寺院になったという。
良念は慶安元年(一六四八)九月二日に入寂した。元禄年中、火災に罹り、堂宇宝物の全てを焼失したが、何時再建したか、「本堂七間ニ六間半巽向ナリ」と『新編武蔵風土記稿』にある。
巽は南東の方角であるので現在の堂宇と同じ向になる。
寛政四年七月三日在銘の梵鐘の鋳造が完成したのは、第十二世了岷の代であったという。横浜開港後、外国領事館として使用の申込があった時、十四世励成は、本堂の屋根の一部を自ら破損し、修理中であるからと使用を拒絶という。明治元年一月七日の宿中の大火に類焼したが、明治十八年に九間四方の本堂の再建が完成した。
大正一二年九月一日大震災には堂宇は悉く倒壊したが、翌年仮本堂・庫裡・書院の復興が完成した。(「神奈川区史」より)
「神奈川区宿歴史の道」掲示による良泉寺の縁起
良泉寺は海岸山と号し、浄土真宗大谷派に属す。本願寺第8世蓮如上人に帰依した蓮誉が、小机付近の旧街道沿いに草創、慶安元年(1648)入寂したこの寺の第4世良念の代に、徳川幕府より境内地の施入を受け、現在地に移転したと伝えられる。
開港当時、諸外国の領事館に充てられることを快よしとしないこの寺の住職は、本堂の屋根をはがし、修理中であるとの理由を口実にして、幕府の命令を断ったといわれる。(「神奈川区宿歴史の道」掲示より)
「横浜市史稿」による良泉寺の縁起
良泉寺
位置及寺格
良泉寺は、海岸山と號し神奈川區神奈川町字新町九十九番地にある。境内は五百五十五坪。官有地。東本願寺末で、寺格は院家である。
沿革
ロ碑に傳ふる所に據れば、當寺の草創は、鎌倉郡本鄕村の鄕士某、本願寺第八世蓮如上人に歸依して僧侶となり、宣敎房聞海と號し、小机附近舊海道筋に一宇の草庵を結び、常に念佛を勤行して、往來の人を感化したに濫觴し、第四世良念(或は五世とも云ふ。)の代、德川將軍家より境内地の施人を受けて、今の位置に移轉し、當代の法主より本尊竝に寺號の授與を得、茲に始めて寺院の格式を備ふるに至つたと云ふ。依つて良念を開山と稱する。良念は慶安元年九月二日に入寂した。元祿年中、火災に罹り、堂宇・寶物等悉く燒失したが、其後再建が出來たと見えて、新編武藏風土記稿に、本堂七間に六間半と載せてある。寬政四年、了岷の代に、梵鐘の鑄造が出來た。明治元年正月七日、宿中の大火に類燒し、同十八年に至つて九間四面の本堂の再建が成つた。大正十二年九月一日の大震災に、堂宇悉く倒潰の慘害を被つたが、翌大正十三年二月。假本堂及び庫裡・書院の復興を告げた。
本尊
本尊は阿彌陀如來立像、高一尺三寸である。(「横浜市史稿」より)
良泉寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「神奈川区史」
- 「横浜市史稿」