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猫の足あと

雲松院。横浜市港北区小机町にある曹洞宗寺院

雲松院の概要

曹洞宗寺院の雲松院は、臥龍山神太寺と号します。雲松院は、笠原越前守信為(法名乾徳寺雲松道慶)が開基となり季雲永岳(大永6年1526年寂)を開山に迎えて神太寺村に創建、第二世天叟順哮の時に当地へ移転したと伝えられます。当境内地は池で、龍蛇が棲んでいたものを僧是順哮が捕えて池を埋めて当寺をここに移転、ところが第五世玄宗頓の時に再度龍が再び出現、和尚は偈を授けて再び小蛇となり、捕えて市ヶ谷長龍寺へ贈ったという言い伝えが残ります。慶長4年寺領20石の御朱印状を拝領したといいます。

雲松院
雲松院の概要
山号 臥龍山
院号 雲松院
寺号 神太寺
住所 横浜市港北区小机町1451
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



雲松院の縁起

雲松院は、笠原越前守信為(法名乾徳寺雲松道慶)が開基となり季雲永岳(大永6年1526年寂)を開山に迎えて神太寺村に創建、第二世天叟順哮の時に当地へ移転したと伝えられます。当境内地は池で、龍蛇が棲んでいたものを僧是順哮が捕えて池を埋めて当寺をここに移転、ところが第五世玄宗頓の時に再度龍が再び出現、和尚は偈を授けて再び小蛇となり、捕えて市ヶ谷長龍寺へ贈ったという言い伝えが残ります。慶長4年寺領20石の御朱印状を拝領したといいます。

新編武蔵風土記稿による雲松院の縁起

(小机村)雲松院
字愛宕下と云所にあり、曹洞宗にて遠江國榛原郡高尾の石雲院末臥龍山神太寺と號す、當所小机の城主笠原越前守信為開基せり、信為が法名を乾徳寺雲松道慶と云、故に法號の字を用ひて院に名づけたり、開山季雲永岳大永六年二月十五日寂せり、當寺開闢の年代を尋るに、寺僧の傳る所甚だ疑はし、それをいかにと云に開基越前守信為が位牌に、明應年乙卯六月八日とあり、然るを小田原記笠原越前守追善の條に記す所によれば、此卒年とあはず、其文の略に云、武州小机の城主笠原越前守は、古早雲寺殿の忠臣たり、されば氏綱氏康への中功学て計ふべからず、弘治丁巳三年七月八日小田原に於て逝去あり、法名雲昌慶公庵主と號す、此人才藝無雙和歌の道にも達者なり、氏康を初め譜臣の嘆息限りなし、唯父母に別れたるに同じ、今年七月七日第三年忌に當りしかば、彼子息能登守方へ御追討の御詩歌共あり、皆々歌を送らる、其歌数数百首餘り、御屋形の詩もあり、氏悼雲昌庵主詩云、歿後秋風残夢驚、忌辰七月巳相迎、雙星又有年々會、離恨明朝別様情、又隣松「今按ずるに此人釋門歟」和詩云這人従来非可驚、三間一夢値芳迎、嘆悲拭眼詩歌席、隻字半言難述情、是によれば弘治三年七月八日に歿せしこと論なし、加之當寺の所蔵せる所の文書によりても、位牌の忌日誤れることは見るべし、又乾徳寺と云號も後に名づけしも知るべからず、又寺傳に當寺は初近郷神太寺村に草創せしを、第二世天叟順哮の時當所へ移したり、故に寺號を神太寺とも、乾徳寺とも號すといへり、又云是順哮の事に奇異の談あり、此境内昔はなべて池にして龍蛇のすみかなりしを、和尚かの龍蛇を得脱せしめ、池を埋みて當寺を移せり、然るに第五世玄宗頓の時、かの龍再たび出現せしを、和尚偈を授けしかば忽ち小蛇となりしにより、捕へて末寺なる市ヶ谷長龍寺に贈りて、今に彼寺の寶物とせりと云、慶長四年六月八日東照宮此地に於て、寺領二十石の御朱印を賜へり、本堂十一間に七間東向なり、雲松院の三字を掲ぐ心越の書なり、本尊は虚空木の坐像にて長八寸餘、門は両柱の間一丈許にて、臥龍山の扁額は月舟の筆なり、この門に向て右の方に通用門あり。
寺寶
鎗一筋。笠原信為の子某納めし所なり、素鎗にて長一丈許。
古文書六通。大抵北條家よりの文書なり、其文左の如し。(中略)
鐘楼。門を入て左にあり銘文左に出す。(中略)
笠原越前守信為墓。本堂の後の山の半腹にありて、世々の石碑と並立り、五輪の石塔なり、文字は滅して読へからず、信為は當寺の開基なることは前にいへる如し、此人祖先の出る所の世系今考ふべからず、系図にも信為を初として其子孫を記したれば、とかく慥ならぬこととおもはる、此墓も昔は神太寺村にししを、爰に移せしならん、相傳ふ信為歿せし時、當所より南西にあたる下菅田村の地にて荼毘せしとて、今に其地を道慶が谷とおへり。(新編武蔵風土記稿より)

横浜市国際観光協会・横浜市教育委員会文化財課掲示による雲松院の縁起

関東管領山内上杉家の土豪矢野兵庫助の居城といわれている小机城は、文明10年(1478)に扇谷上杉家の家宰太田道灌に破られてから廃城となっていましたが、大永4年(1524)頃、小田原北条氏の勢力圏に入り、南武蔵の軍事上や、経済上の重要起点として修築され、重臣笠原越前守信為を城代としました。
信為は、父能登守信隆の追善のために、季雲を招いて開山とし、自らが開基となり曹洞宗寺院、臥龍山雲松院を建立しました。
その昔、この地に龍池という池があり、二世天叟が、この龍の住む池にちなみ、山号を臥龍山とし、伽藍を建立したという説が「臥龍山雲松院起立記」にあります。
山門横の通用門には、月舟宗胡筆の「臥龍山」、本堂正面には、東皐心越の「雲松院」の額があり、共に名僧の誉れ高い禅師の筆になるものです。
墓地には、笠原家代々の墓所、ならびに池辺村の地頭門奈氏墓所があります。(横浜市国際観光協会・横浜市教育委員会文化財課掲示より)


雲松院所蔵の文化財

  • 雲松院本堂及び山門(横浜市指定有形文化財)
  • 旗本笠原家の墓所(横浜市地域史跡)
  • 天童小参抄(下巻)一冊(横浜市指定有形文化財)

雲松院本堂及び山門

雲松院は小机城主であった笠原越前守信為が亡父能登守信隆の菩提を弔うために建立したと伝えられ、寺名は開基信為の法名「乾徳寺殿雲松道慶庵主」に由来するとされています。
本堂は、正面九間、側面七間、方丈形式の堂々たる堂で、内部は八室からなり、来迎柱二本と、仏間と室中境の柱二本を除くすべてのはしたは角柱で、住宅風のしつらえとなっています。屋根は昭和三十年代に茅葺を改めたものです。
山門は、本瓦葺の四脚門で、昭和三十年代に茅葺から改められましたが、屋根以外はほとんど改変が認められません。
本堂は、関東大震災で大きな被害を受け、改造された部分はありますが、全体としては旧状をよく留めており、建造年代も明確で、緑に囲まれた優れた環境と相まった、市内有数の貴重な遺構です。(横浜市教育委員会掲示より)

旗本笠原家の墓所

笠原家は、初め小田原北条家に仕えましたが、小田原北条家滅亡後は、徳川家に仕え、信為の孫の照重の子、重政が天正十九年(1591)に武蔵国都筑郡台村(現、緑区台村町)に二百石を賜りました。
現在、墓所には元和九年(1623)在銘の宝篋印塔一基をはじめ、笠付角柱塔、石仏など合計十七基の墓を数えることができますが、それらは重政、信重、為次ら笠原一族のものです。(横浜市教育委員会掲示より)

天童小参抄(下巻)一冊

天童小参抄は、中国の禅僧宏智正覚(1091-1157)が行った三十六の説法を集めた、「天童小参録」を批評・解釈したものです。本来は上下二冊からなりますが、上巻はなくなっています。
筆者は明らかではありませんが、応永二十八年(1420)頃の写本と考えられ、本書は最も古い写本となります。
また、曹洞宗宏智派の宗風を探る「天童小参録」研究のうえで重要な資料です。(横浜市教育委員会掲示より)

雲松院の周辺図


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参考資料
  • 新編武蔵風土記稿