八木山福徳院。飯島勘次郎が三島蓮馨寺の日限地蔵尊を勧請
八木山福徳院の概要
高野山真言宗寺院の福徳院は、八木山と号します。福徳院は、農業を営んでいた飯島勘次郎が、伊豆国三島の蓮馨寺の日限地蔵尊を勧請して当地に慶応2年(1866)創建、武相国境を眼下に見下ろせる当寺は参詣者も多かったといいます。
山号 | 八木山 |
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院号 | 福徳院 |
寺号 | - |
住所 | 横浜市港南区日限山1-67-30 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
八木山福徳院の縁起
福徳院は、農業を営んでいた飯島勘次郎が、伊豆国三島の蓮馨寺の日限地蔵尊を勧請して当地に慶応2年(1866)創建、武相国境を眼下に見下ろせる当寺は参詣者も多かったといいます。
新編相模国風土記稿による八木山福徳院の縁起
新編相模国風土記稿編纂以降に創建のため掲載なし、(新編相模国風土記稿より)
「港南の歴史」による八木山福徳院の縁起
正応寺(八木山)
飯島勘次郎は、農業を営んでいたが、常日頃持病の癪に苦しんでいたところ、たまたま一人の旅僧が、道すがら、この様子を眺め、伊豆国三島の蓮馨寺の日限地蔵尊を信仰すれば、癪の苦痛は根治すると教えられ、同地におもむき祈願したところ、旅僧の言葉にたがわず、知らぬ聞に病苦をのがれることが出来たので、この功徳を世人に、わかち与えねばと、蓮馨寺から地蔵尊の分身を勧請して、この地に、日限地蔵尊を本尊として祀ったが、はじめ寺は単立であって、日本三体地尊尊の一体と称した。他は山梨、諏訪に配られてある。
福徳院開創は、慶応二年(一八六六)七月二四日で、旧鎌倉道に臨み、人里離れた丘陵の最高所にあって、一度境内に立って、四囲を眺望すれば、武相国境を眼下に、重畳と連なる山波は、「横浜の高野山」と呼ばれて、深山幽谷のただずまいを思わす閑寂な山中にあって、毎月四の日の命日には、参詣の人々は、弁当持参で参拝し、願かけの姿が多く、一日の行楽にもなって、戦前は、花柳街の綺麗所の艶姿も多かった。
昭和二八年七月一目、高野山真言宗金剛峯寺末となる。昭和四二、三年頃から、福徳院の境内から見下す、下永谷町一帯は、京急港南ニュータウンその他の、宅地造成によって、緑地は皆無となり、昔日の風情をしのぶよすがもない。(「港南の歴史」より)
八木山福徳院の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 「港南の歴史」