猫の足あとによる港南区・横浜市・首都圏の寺院、神社など寺社案内

猫の足あとによる横浜市寺社案内

梅花山成就院。横浜市港南区笹下にある真宗高田派寺院

梅花山成就院の概要

真宗高田派寺院の成就院は、梅花山と号します。成就院の創建年代等は不詳ながら、往古は曲田山上行寺と称する法相宗寺院だったといいます。建保2年(1214)祐玄法印が親鸞上人の弟子となり、浄土真宗寺院に改めたといいます。成就坊の寺号は本願寺蓮如上人より、は梅花山の山号は本願寺良知上人より与えられて梅花山成就坊南無佛院と称し、林貞寺・香林寺・乘船寺等の末寺を擁していたといいます。昭和29年の新宗教法人法に際して成就坊を成就院と改めたといいます。

成就院
成就院の概要
山号 梅花山
院号 成就院
寺号 -
住所 横浜市港南区笹下4-11-5
宗派 真宗高田派
葬儀・墓地 -
備考 -



梅花山成就院の縁起

成就院の創建年代等は不詳ながら、往古は曲田山上行寺と称する法相宗寺院だったといいます。建保2年(1214)祐玄法印が親鸞上人の弟子となり、浄土真宗寺院に改めたといいます。成就坊の寺号は本願寺蓮如上人より、は梅花山の山号は本願寺良知上人より与えられて梅花山成就坊南無佛院と称し、林貞寺・香林寺・乘船寺等の末寺を擁していたといいます。昭和29年の新宗教法人法に際して成就坊を成就院と改めたといいます。

新編武蔵風土記稿による梅花山成就院の縁起

(雑色村)
成就坊
除地、二段一畝二十歩、村の巽の方にあり、浄土眞宗伊勢國一身田専修寺末、梅花山南無佛院と號す、往昔は法相宗にて曲田山帶行寺と號せしが、建保二年現住祐玄法師眞宗に歸依し、親鸞の弟子となり、改宗す、よりて祐玄を開基と稱す、文永元年十一月六日、歳七十五にして寂す、もとは西本願寺の末なりしが、元文三年十六代の僧了甫の時、今の末寺となれり、又今の坊號は本願寺蓮如より與へしを以て、元の寺號に替しと云、山號は本願寺良如、武州江戸へ下向の時、九條殿下と共に金澤遊覧のをりから、當寺に逗留あして、時の住僧第十三世了善を招き、梵區の勝襞を賛美し、戯に庭前の梅花を手折りて一詩を詠し、梅花山と呼べしとありしかば、古の山號を改めしとなり、本尊彌陀長二尺五寸、元文三年本山十七代歓喜心院の裏書に、惠信の作の山記す、親鸞の室惠信尼の作なるにや、惠心院の源信にはあらざるべし、本堂は間口七間奥行六間半。
寺寶
親鸞壽像一軀。長一尺常盤の眞影と號す、親鸞鎌倉常盤に逗留の時、自作すと云。
六字名號一軸。親鸞の筆。
善導大師木像一軀。長八寸、法然の作。
聖徳太子二歳肖像一軀。御長一尺五寸の木像なり、太子二十五歳の時、自から幼稺の形を彫刻ありしと傳ふ、開基祐玄習學の時、南都興福寺祐賀僧都より、師弟契約の驗に授與せしものにて、此を南無佛の尊像と號す、當寺の院號は則これによれりと云。
六字名號一軸。蓮如の筆。
大經の文一巻。三部經の内無量壽經なり、伏見宮の筆とのみ傳へて来由詳ならず。
正観音像一軀。長八寸、相傳ふ右大将賴朝義兵を擧るとき、文覺其成否を卜せんため、一百座の護摩修行せし結願の日、檀上に感得せる像にて、賴朝の守護佛なりと傳ふ。
鍾樓。享保九年五月鑄造の鐘をかく、銘文考證に益なければ略す。
薬師堂。薬師は長一尺七寸三分、行基の作、此堂はもと境外東の方にありて、一に香林寺と號せしが、數度の賊難を恐れ、承應年中境内へ移れり、古への堂地二十歩餘の除地は、今に存す、此堂文化九年十一月の地震に破壊し、いまだ再建に及ばず、像は假に本堂に安す。
門。四つ足門なり、古へ間宮氏笹下に陣屋ありし頃の門なりしが、陣屋廢せし頃引移せりと云。
塔頭。
林貞寺。本尊彌陀、開基林貞は元和元年三月三日寂す、境内より巽の方一町餘を隔て、年貢地にありしが、中古廢してより未だ再造に及ばず。
乗船寺。本尊彌陀、開基乗船天文二年八月二日寂す、此も艮の方境内つづき年貢地にありしが、今はは廢す。(新編武蔵風土記稿より)

「港南の歴史」による梅花山成就院の縁起

成就院(梅花山)
当院は、往昔、法相宗曲田山上行寺と称した古刹であったというが、建保二年(一二一四)、時の住僧祐玄法印二四歳が親鸞上人の弟子になって、真宗に帰依し、改宗して西本願寺末に属した。
以来、当院では、祐玄法印を開基とする。祐玄法印は、文永元年(一二六四)一一月六日寿七五で寂している。
元文三年(一七三八)一七世了甫の時に西本願寺末を専修寺末派に附属した。寺伝によると当院は昭和二九年(新宗教法人法によって改訂)までは、成就坊と坊号を称していた、この坊号は、本願寺八世蓮如上人(明応八年一二月二五日寂)から附与されたもので、また山号は本願寺二二世良如上人(寛文二年九月七日寂)が、江戸下向の折、関白九条殿とともに、金沢の勝景を巡覧して、当寺に錫を止めて、住持一三世了善にむかい、境内から四囲の風景を賛美し、折り柄庭前に咲き匂う、梅花一枝を手折って、一詩をそえ、以来梅花山と称すべしと申されたので、それ以後は、曲田山の山号を改称したという。
その頃は、境内附近には、林貞寺、香林寺、乗船寺などの末寺があって伽藍も、荘厳であったが、嘉永二年に、火災に罹り、堂宇、什宝、悉く灰燼に帰してより、寺運は頓に衰退した。
今の堂宇は二三世花園硯城代が、明治二三年四月再築したものである。
硯城の先代二二世硯祐の三男、還俗して間宮一(一八歳)は、幕末、鎌倉八幡宮附近の街道に於て英国陸軍士官二名を殺害した浪士の一人で、慶応元年(一八六五)九月一二日、戸部処刑場に於て斬首されている。
なお南無仏院という院号を称したとともあったが今は使用しない。(「港南の歴史」より)

「横浜市史稿 佛寺編」による梅花山成就院の縁起

成就坊
位置
成就坊は、梅花山南無佛院と號し、中區笹下町四千七百八十五番地に在る。境内は一千餘坪。本山專・修寺の末で、寺格は老分地である。
沿革
當寺は、往昔曲田山上行寺と稱して、法相宗の古刹で在つたが、建保二年、時の住僧祐玄が、深く眞宗に歸依し、遂に親鸞聖人の弟子となり、眞宗に改め、西本願寺末に屬した。故に祐玄文永元年十一月六日寂。を當寺の開基とする。降つて元文三年、
第十六世了甫の時、西本願寺末を離れ、專修寺末派に附屬した。寺傳に據れば、今の坊號は本願寺蓮如上人から附與されたものと云ふ。又山號は本願寺良知上人が江戸へ下向の時、關白九條殿と共に金澤を巡覽の序に、當寺に留錫し、住僧第十三世了善。を招き、梵域の勝景を贊美し折柄庭前に眹き匂ふ梅花を手折り、一詩を賦し、以來梅花山と呼ぶべしとあつたので、古名曲田山の號を廢し、今の山號に改稱したと云ふ。其頃は境内附近に、林貞寺・香林寺・乘船寺等の末寺を有し、伽藍いと莊嚴であつたが、嘉永二年、火災に罹り、堂宇・什寶等悉く灰燼に歸したので、寺運頓に傾いた。今の堂宇は第二十三世硯城の代、明治二十三年四月の再建である。
本尊
本尊は阿彌陀如來立像、長二尺五寸、傳に惠心作である。
堂宇
今の堂宇は、本堂桁行五間半、梁間五間半、草葺、四注造、向拜附。・庫裡桁行七間、梁間五間、草葺。・廊下一間、六間、亞沿葺。・山門草葺。梅花山の扁額を揚ぐ。古へ間宮氏笹下の陣屋廢止の砌、當寺に移したと云ふ。・鐘樓桁行九尺、梁間九尺、草葺。明治十九年鑄造の梵鐘を懸く。等である。(「横浜市史稿 佛寺編」より)


いいお墓

梅花山成就院の概要

  • 笹下城の空堀跡

笹下城の空堀跡

幻の笹下城といわれている城は、当成就院付近の高台を中心として築かれた戦国時代のお城です。しかし調査が十分に行われる前に洋光台開発の波にのみこまれたために詳細が不明になり「幻の笹下城」と呼ばれるように。
笹下城を築いたのは小田原北条氏家臣、間宮豊前守信元であったとされています。この一帯は山あり谷ありでいくすじもの川が流れており、このような自然の地形を利用する造りを「谷津構え」といいます。この石板の前の道が、当時の空堀の跡です。織田信長が安土城を造った後の安土桃山時代や江戸時代には平地に天守閣がそびえるきれいな城が造られるようになりましたが、それ以前はこうした自然の地形を利用した、砦のような城を造るのが普通でした。
当時、戦いがない時の武将の生活は、陣屋と呼ばれるところで行われていました。間宮氏の陣屋は現在の「洋光台入口」信号から西の、山を背負った平地にあったと考えられています。
戦国時代のはじめ、北條早雲がそのころ関東地方を支配していた山内上杉氏と扇ヶ谷上杉氏に対して戦いを仕掛けました。この戦で間宮と名乗る武者が勇壮華麗な働きを納め、主君北條早雲に認められ「相模衆十四家」の筆頭として相模進出の最前線をまかされることになりました。
両上杉氏に備えるため、間宮信盛が現在の京急川崎益に近い堀ノ内に館を築きました。しかし上杉氏が徐々に勢力を失い北関東へと退いて行き、代わって房総(現在の千葉県)の里見氏の水軍がしばしば金沢や磯子に上陸してくるようになったため信盛の子、信元が笹下へと移ったのです。
笹下に移った間宮信元は、笹下城以外にも杉田陣屋、森陣屋、氷取沢神社、さらには港南区の中登台に松本城を築き兵力を巡らせました。そのためさしもの里見水軍も攻めてくることがなくなりました。
時代が下って、豊臣秀吉の天下統一により、小田原北条氏は滅ぼされます。しかしこの時、間宮一族が箱根の山中城を守った戦いぶりがあまりに見事であったため、攻撃側の徳川家康は笹下に残っていた間宮氏の中から多くの者を家臣として取り立てました。
後の世にその一族からは、間宮海峡を発見した間宮林蔵や、オランダ医学を初めて我が国に移入した杉田玄白のような人物を輩出することになります。
近年の住宅地開発にともない、大木の伐採と擁壁工事をここに施行しました。
平成十六年五月吉日
梅花山成就院(境内石板より)

梅花山成就院の周辺図

参考資料
  • 新編武蔵風土記稿
  • 「港南の歴史」
  • 「横浜市史稿 佛寺編」