東福寺。横浜市港南区笹下にある浄土真宗本願寺派寺院

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杉本山東福寺。密弁が親鸞上人の法弟となり開山

杉本山東福寺の概要

浄土真宗本願寺派寺院の東福寺は、杉本山三月院と号します。東福寺は、護妙法印が天禄3年(972)に天台宗妙法山一乗寺と称して創建、永暦元年(1160)落雷により焼失してしまい、その後は村人が本尊薬師如来を守る薬師堂を作り護持してきたといいます。文治5年(1189)に僧密厳が堂守をはじめ、その弟子密弁(海弁)が親鸞上人の法弟となり浄土真宗に改めたといいます。

東福寺
東福寺の概要
山号 杉本山
院号 三月院
寺号 東福寺
住所 横浜市港南区笹下5-13-20
宗派 浄土真宗本願寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



杉本山東福寺の縁起

東福寺は、護妙法印が天禄3年(972)に天台宗妙法山一乗寺と称して創建、永暦元年(1160)落雷により焼失してしまい、その後は村人が本尊薬師如来を守る薬師堂を作り護持してきたといいます。文治5年(1189)に僧密厳が堂守をはじめ、その弟子密弁(海弁)が親鸞上人の法弟となり浄土真宗に改めたといいます。

新編武蔵風土記稿による杉本山東福寺の縁起

(雑色村)東福寺
除地、二段五畝餘、村の中程にあり、これも同宗にて京都西本願寺末、杉本山三月院と號す、縁起に據るに天禄三年護妙法印と云者、叡嶽より行基の作れる薬師の像を負ふて當所に来り、一宇を創建し妙法山一乗寺と號し、天台宗なり、其後永暦元年七月十世の僧明道の時に當り、雷火のために堂宇烏有となりしが、再建力及ばずして、長寛二年の春明道遷化し、一時無住となり、本尊薬師も雨露に侵されしより、村民等小堂を建て安置す、其後數年を暦て、文治五年僧密厳なるもの爰に来り、堂傍に草庵を結び守護す、其弟子密辨眞宗を信じ親鸞の法弟となり、名を海辨と改め、遂に改宗す、よりてこれを開基とす、文永三年三月晦日、八十九歳にして遷化す、又寺僧の説に、古へ當村小名杉本といへる所に、北見掃部と云ものあり、當寺の檀越にて、康正二年八月十六日卒し、法名春光院東福壽元居士と號す、此人當寺を中興せし人にて、彼が法名又居所の名にとりて、寺山號を今の如く改めしなるべしと、今も其子孫あり、下の舊家の條に出せり、又院號を三月と云るは、親鸞當寺に三ヶ月逗留ありて化導ありし靈場なるにより、かく號すと云、本堂六間半に六間、本尊阿彌陀、長二尺三寸餘、裏に慶長九年甲辰七月十一日、釋准如願主東福寺釋海順とあり、古の本尊薬師は村の西北笠松塚前の堂に安置せり、又當寺文禄中鑄造の大鐘ありしが、今は失ひて其銘文のみを存す、頗る考證に益あれば其文を左に載す。(銘文省略)
寺寶
親鸞自作木像一軀。親鸞七十二歳の像にて、長一尺五寸餘の坐像なり、本山十四代位解院寂如延寶八年の裏書あり。
光明本。親鸞の筆。
六字名號一軸。同筆。
同一軸。蓮如筆。
阿彌陀畫像一軸。善導大師の筆。
塔頭。
憶念寺。開基唯順寛永二年九月三日寂す、此寺今破壊に及べり、本尊彌陀は本坊に安置す。(新編武蔵風土記稿より)

「港南の歴史」による杉本山東福寺の縁起

寺の縁起によると、天禄三年(九七二)護妙法印という僧が、比叡山から、行基菩薩の作である薬師如来の尊像を背負って、当所まで来たりて、ここに天台宗の妙法山一乗寺という寺を建立した。
その後、永暦元年(一一六〇)七月、一〇世の明道の時、落雷によって堂宇が烏有に帰してしまったが、明道は、堂宇も復旧できぬ長寛二年(一一六四)に、逝くなってしまった。そのため本尊の薬師如来は雨露にさらされるようになったので、村人達が、小さなお堂を建てて薬師如来を安置した。
文治五年(一一八九)密厳という僧が来たって、庵を結んで、薬師堂を、お守りするようになった。
密厳の弟子の密弁は親鸞上人の法弟となって真宗に改め、名を海弁と名乗った。
東福寺は、開基を、真宗に改宗した海弁上人としている。海弁は文永三年(一二六六)三月一日に寂している。また当寺の檀家に、当村字杉本という処に住む、北見掃部という人がいて、康正二年(一四五六)八月一六日歿し、法名を春光院東福寿元居士といい、当寺を中興Lたので、その住いの字名と、法名から山号寺号を現在のように改めたというが、その時は定かでない。
また院号の三月と称するのは、親鸞上人が、当寺に三ヶ月間滞在をして近隣に布教活動をしていた由緒によって院号にしたものである。
当寺に文禄元年(一五九二)、一二世海恵の時鋳造した洪鐘があったというが今はない。
慶長年代(一五九六-一六一五)、一四世海順の頃、塔頭に憶念寺があったが、何時の頃か廃絶したが、同塔頭の本尊であった阿弥陀如来立像は、今当寺の本尊となり、一時笠松塚の薬師堂に祀られた元当寺本尊の薬師如来坐像も当寺に再び安置されている。(「港南の歴史」より)

「横浜市史稿 佛寺編」による杉本山東福寺の縁起

東福寺
位置
東福寺は杉本山三月院と號し、中區笹下町三千六百二十八番地に在る。境内五百四十九坪。官有地。西本願寺末で、寺格は内陣列座である。
沿革
天祿三年、天台宗の僧護妙法印なる者、叡山より行基作の藥師像を負うて當所に來り、今の地に一宇を草創し、妙法山一乘寺と稱した。 これを當寺の開闢とする。永曆元年七月、十世の僧明道の時、雷火のため堂宇が烏有に歸し未だ再建に及ばぬうち、長寬二年明道は寂したので、村民小堂を建て、本尊を安置した。其後年所を歷て、文治五年に至り、僧密嚴なる者、爰に來つて靈域の衰退を歎き、堂傍に草庵を結んで、その尊像を守護した。弟子某が次いで住持し、深く眞宗に歸依して、親鸞聖人の法弟となり、名を海辨と改め、遂に今の宗旨に改めた。故に海辨を以て當寺の開基とする。 口碑に據れば、古へ當所小名杉本に、北見掃部と云ふ者が居て、當寺の檀越となり、法名を春光院東福壽元居士と號した。此者が當寺を中興したので、彼が法名及び居所に原づきて、山號竝に寺號としたと云ひ、又親鸞聖入東國巡錫の時、當寺に三箇月逗留あつて、化導に努めた靈場であるから、三月院と名付けたとも云ふ。慶長の頃、第十四世海順の代、塔頭憶念寺を建立したが、いつの頃か廢絕に歸した。この時、同寺の本尊阿彌陀如來を當寺の本尊とし、古への本尊藥師如來は、同所笠松塚の堂内に移した。然るに其後藥師堂が火災に罹つたので、再び藥師を當寺に復した。近く大正十二年九月一日の震災に、本堂が倒壊したを、現住第二十五世海旭が再建した。
本尊
本尊は阿彌陀如來立像、二尺二寸五分である。
堂宇
今の堂宇は本堂桁行四間、梁間四間、亞沿葺、向拜附、四注造。・書院桁行二間、梁間二間、亞沿葺、本堂へ造込。・庫裡桁行四間半、梁間三間半、亞沿葺。・鐘樓桁行九尺、梁間九尺、草葺。・山門桁行九尺、梁間九尺、草葺。等である。境外小名經塚山にある太子堂は、古來當寺で進退した所であつたが、今は一個人の祭祀になってゐる。その安置の聖德太子像は、太子の自作で、曾て親鸞聖人が當寺に逗留の時靈夢に依つて土中から感得し、當寺開基海辨に授與した所であると云ふ。其後應永十年、村民淸兵衞が先祖 北見掃部、太子の告を蒙り、一族と力を協せて、堂宇を己が持地經塚山に建立し、太子像を移し、憶念寺と名付け、第十四世海順を開基とし、當寺に寄附して鎭守とした。其後天文二年、地頭間宮豐前守信元、深く崇敬し、改めて一村の鎭村とした。天明の頃堂宇の再建があつたが、其後火災の厄に罹つたので、尊像は再び當寺に安置したところ、近年再建成り、復現地に移されたのである。又小名笠松塚に境外藥師堂が在つて、當山開創の護妙法印が叡山から携へ來つた藥師を安置してあつたが、明治の初め廢絕に及んだので、今は當寺に移し、安置してある。(「横浜市史稿 佛寺編」より)


杉本山東福寺の縁起

  • 絹本著色光明本尊図一幅(横浜市指定有形文化財)

絹本著色光明本尊図一幅

本図は、「南无不可思議光仏」の名号を中心として、やや下がった右側には「帰命盡十方无碍光如来」、左側には「南無阿弥陀仏」の名号が金泥にてそれぞれの蓮台上に誌され、中心の名号から四十八条の光明を発し、脇侍の位置には二体の如来、さらに左側には西店七祖と三菩薩、右側に本朝八祖と聖徳太子並びに眷属が見られるとともに、了海上人とその門下で釈海弁の銘札のある二体の比丘が描かれています。
なお、本図には裏彩色が施されており、切金・朱起し・墨彩色などの技法が用いられ、特に墨線には優れたものを見ることができます。
本図は、その技法などにより、南北朝時代(十四世紀後半)から室町時代初期頃の制作と考えられ、その光明本尊は、主に布教用に用いられたとされています。(横浜市教育委員会掲示より)

杉本山東福寺の周辺図

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「港南の歴史」
  • 「横浜市史稿 佛寺編」