蓮生寺。横浜市緑区青砥町にある日蓮宗寺院

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法性山蓮生寺。青砥左衛門藤綱を祀る青砥大明神

蓮生寺の概要

日蓮宗寺院の蓮生寺は、法性山と号します。蓮生寺は、永禄2年(1559)に創建、明静院日領(天正3年1575年寂)が開山したといいます。青砥村の地頭勝部某が文禄元年(1593)に中興、法諡より蓮生寺と号したといいます。境内に祀られている青砥大明神は、鎌倉時代に当地領主だった青砥左衛門藤綱を祀ったもので、享保17年(1732)に池上林昌寺より日義上人を招いて勧請したものだといいます。

蓮生寺
蓮生寺の概要
山号 法性山
院号 -
寺号 蓮生寺
住所 横浜市緑区青砥町630
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



蓮生寺の縁起

蓮生寺は、永禄2年(1559)に創建、明静院日領(天正3年1575年寂)が開山したといいます。青砥村の地頭勝部某が文禄元年(1593)に中興、法諡より蓮生寺と号したといいます。

新編武蔵風土記稿による蓮生寺の縁起

(青砥村)蓮生寺
除地、七畝十歩、村の艮の方にあり、日蓮宗、身延山久遠寺末、客殿七間半に五間西に向ふ、本尊三寶を安せり、當寺は永禄二年の起立にて、開山明静院日領天正三年十月二十七日寂す、地頭勝部某が法諡を蓮生と云、この人文禄元年中興中興をなし、法性山蓮生寺と改む、されど初めの寺號をつたへず。(新編武蔵風土記稿より)

境内に祀られている青砥大明神について

青砥大明神ご遷座の記
鎌倉時代北条時頼に仕えた忠臣評定頭青砥左衛門尉藤綱公が当地を所領し、善政をもって諸民を養われたことより、当地地名が「青砥」と号されるようになり、その願望を慕う村人は、公の歿後ここに墳墓を構えてお祀りしたのであります。
享保十七年(一七三二年)の頃、当地に部落民がほとんど死に絶えてしまうほどの悪病が流行した際、神に祈願したところ青砥大明神が荒廃にまかされて顧みる者もないため神の怒りに触れたのだとのお告げがあったという。村人たちは大いに驚きお墓を清掃し池上林昌寺より日義上人を招いて、大明神の勧請を行い、青砥村の守り神としてあがめ奉るようになりました。
以前より青砥の領主であり、徳川家代々に仕えた勝部尚正公、勝部正房公以下歴代の殿様が当蓮正寺の中興維持に盡されたのでありますが、享和三年(一八〇三年、今より一七五年前)この勝部公のご子孫と村人有志により、以前のお墓が修復されこの青砥大明神の建立菩提が行われたのであります。
しかしその后の永い年月の経過でお墓の周囲は荒れ果てて僅か数坪の敷地内に青砥大明神の石碑だけが淋しく残ったのです。
この石碑は、以前青砥町バス停留所の裏側にあり敷地内には雨水が流れ集るといったありさまで、時折心ある人々により墓標の建立・清掃等が行われましたが一般には忘れられがちとなり現在にいたりました。
青砥大明神のこのお姿をこれ以上放置しておくことは真に申し訳ないことであり、今後は更に顧りみられなくなることも懸念されておりましたところ、この程当境内にご遷座申し上げることとなったのであります。
勝部公の菩提寺である当寺内にご遷座奉るにあたり、希くは藤綱公の御靈、何とぞ安らかに永遠に当地にお鎮まり下さるよう、お祈りするものであります。(境内掲示より)

境内に祀られている青砥大明神について

(青砥村)青砥明神社
村の中央にあり、塚上に石の祠をたつ、相傳青砥左衛門藤綱が靈を祀ると、此社は五十年前神にまつりし時造りと云、今村民五郎左衛門は藤綱が子孫なりとて、信國の太刀一振蔵す、これも別に證とすべきことなし。又彼が家傳に下總國香取郡寺作村三宮某も同家なりと云。(新編武蔵風土記稿より)


蓮生寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿