金刀比羅神社|安政6年現横浜公園の地に創建
金刀比羅神社の概要
金刀比羅神社は、横浜市南区真金町にある金刀比羅神社です。金刀比羅神社は、讃岐国象頭山の金毘羅大権現を勧請して安政6年(1859)現横浜公園の地に創建したといいます。慶応3年吉原町に、明治5年高島町七丁目の海側に遷座、明治6年無格社に指定され、明治15年当地へ遷座したといいます。
社号 | 金刀比羅神社 |
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祭神 | 大物主之命、崇徳天皇 |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷神社、大鷲神社 |
住所 | 横浜市南区真金町1-3 |
祭日 | 例大祭5月10日 |
備考 | - |
金刀比羅神社の由緒
金刀比羅神社は、讃岐国象頭山の金毘羅大権現を勧請して安政6年(1859)現横浜公園の地に創建したといいます。慶応3年吉原町に、明治5年高島町七丁目の海側に遷座、明治6年無格社に指定され、明治15年当地へ遷座したといいます。
新編武蔵風土記稿による金刀比羅神社の由緒
新編武蔵風土記稿編纂時、未創建のため記載なし。(新編武蔵風土記稿より)
「神奈川県神社誌」による金刀比羅神社の由緒
安政六年讃岐国象頭山の金毘羅大権現を勧請して港崎町(今の横浜公園)に奉斎したのを当社の創祀とする。慶応二年一月二十日の大火に類焼して翌三年吉原町に遷座し、更に明治五年再び高島町七丁目の海側に遷座した。翌六年無格社に指定せられ、更に明治十五年、真金町の現在地に神域を移転した。(「神奈川県神社誌」より)
「南区の歴史」による金刀比羅神社の由緒
金刀比羅神社/大鷲神社(真金町1-3)
安政六年(一八五九)六月二日横浜が開港するにあたり、港崎遊郭内に金刀比羅社を祀って廓内の守護神として営業の繁栄を招来するよう、岩亀楼主佐藤佐吉は讃岐の象頭山から金毘羅大権現を勧請して祭祀した。はじめは簡素な假殿であったが、後の遊女の揚代金一人について文久銭一箇(冬至四文に相当)を徴収蓄積することを定めたので。当時の好況で忽ち二間四方の朱塗の御本殿が建立された。万延元年(一八六〇)一〇月六日、洲崎町名主佐吉代要助は、兼ねて神奈川奉行に差出していた金刀比羅社の祭礼許可に請書を出している。
「今般一ヶ年之内、三月、十月九日より一五日迄、金刀比羅祭礼に付、廓内繁栄の為、俄手桶差出、銘々軒提灯献灯仕り度き段願い奉り候処、願之通り聞き届け遊ばされ、尤も火元等之義は、勿論、都々不取締之儀之れ無き様心付く可き旨、仰せ渡らせ有難く承知畏り奉候。仍て請證文差上申す処、件の如し 申十月六日」
以来毎年例祭をおこなったが、慶応二年(一八六六)一〇月二〇日の大火後、遊廓は大岡川の南方に移転することにきまり吉田新田の沼地八〇〇〇坪を埋立て吉原遊廓と称して明治三年五月二九日から営業を行なったが、その奥地に金刀比羅社も鎮座した。明治五年末には三〇余軒が高島町へ移転した。金刀比羅社も同年高島町七丁目の海側に遷座し、金刀比羅神社と改称した。この時大鷲神社も祭祀し、東京にならって酉の市が行われるようになった。翌六年三月無格社として神社明細帳に記載された。
明治一五年五月真金町、永楽町の廓内地の割当てに着手し、この地が完成し移転を終了したのは二一年七月であったが、金刀比羅神社は高島町遊廓の移転期限がくると、明治一五年四月現在の真金町に遷座した。
大正一二年の大震災で社殿焼失、また、昭和二〇年五月二九日の大空襲にも罹災して焼失した。現社殿は昭和二五年に再建されたものである。(「南区の歴史」より)
金刀比羅神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「神奈川県神社誌」
- 「南区の歴史」(南区の歴史発刊実行委員会)