医王山東光寺。横浜觀音三十三観世音霊場、横浜弘法大師二十一箇所
東光寺の概要
高野山真言宗寺院の東光寺は、医王山光明院と号します。東光寺の創建年代等は不詳ながら、快傳(貞享3年1686年寂)が中興開山、戸部にあったといい、横浜開港に伴う環境変化により明治35年当地へ移転したといいます。東国八十八ヵ所霊場32番、横浜觀音三十三観世音霊場7番、横浜弘法大師二十一箇所4番です。
山号 | 医王山 |
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院号 | 光明院 |
寺号 | 東光寺 |
住所 | 横浜市南区三春台110 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
東光寺の縁起
東光寺の創建年代等は不詳ながら、快傳(貞享3年1686年寂)が中興開山、戸部にあったといい、横浜開港に伴う環境変化により明治35年当地へ移転したといいます。
新編武蔵風土記稿による東光寺の縁起
(戸部村)東光寺
除地、五畝二十歩、東の方にあり、(古義真言宗、太田村東福寺末、)薬王山法蔵院と號す、開山開基詳ならず、中興開山快傳は、貞享三年四月二十九日化す、本堂五間に六間、本尊薬師を置
聖天社(新編武蔵風土記稿より)
「南区の歴史」による東光寺の縁起
医王山東光寺
はじめ戸部村の東方西戸部反目六二番にあったが、横浜開港後の市街地の発展と、久保山共葬墓地開設にともなう環境の変化によって、明治三五年一〇月一三日、現在の地に堂宇を建立して移転したものである。
昭和二〇年五月二九日の横浜大空襲によって灰燼に帰し、昭和二五年六月一五日木造平屋トタン葺、間口五間、奥行四間半。庫裡木造平屋七五坪を再建落慶した。(「南区の歴史」より)
「横浜市史稿 佛寺編」による東光寺の縁起
東光寺
位置及寺格
東光寺は、醫王山法藏院と號し、中區南太田町庚耕地千四百七十番地にある。境内は六百四十二坪。市内東福寺の末寺で、寺格は十等、市内觀音三十三所の第七番、同弘法大師二十一所の第四番の靈場である。
沿革
開基・開山、共に不明、唯、天文年間の創立とのみ傅はる。寛永十年二月十五日議定の關東古義眞言宗本末帳に、東福寺末と見える。貞享の頃、快傅が中興した。天保の頃は、除地五畝二十歩、五間に六間の本堂を備へて居たと云ふ。元の境内は、戸部村の東方今の西戸部反目六十二番地。に在つたが、開港後、環境が變化したので、明治三十五年十月十三日、現在の地を相し、新に堂宇を建てゝ移轉に及んだ。
本尊
本尊は藥師如來。元、杉山神社の本地佛であつたと云ふ。
堂宇
現今の堂宇は、本堂(外陣桁行六間、梁間六間、入母屋造、瓦葺。内陣桁行三間、梁間三間、角屋、瓦葺。)・庫裡(本屋八間に六間、袖屋四間に三間、亜鉛葺。)等である。
境内佛堂
境内佛堂、聖天堂。(桁行二間、梁間二間、土藏造瓦葺。)(「横浜市史稿 佛寺編」より)
東光寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「南区の歴史」(南区の歴史発刊実行委員会)
- 「横浜市史稿 佛寺編」