東医山薬王寺。横浜三十三観世音霊場、東国八十八ヵ所霊場
薬王寺の概要
高野山真言宗寺院の薬王寺は、東医山と号します。薬王寺の創建年代は不詳ですが、東福寺の隠居寺だったといい、元禄16年(1703)の大地震で倒壊、享保3年(1718)に真融法印が中興したといいます。横浜三十三観世音霊場4番、東国八十八ヵ所霊場34番、横浜弘法大師二十一箇所7番です。
山号 | 東医山 |
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院号 | - |
寺号 | 薬王寺 |
住所 | 横浜市南区三春台7 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
薬王寺の縁起
薬王寺の創建年代は不詳ですが、東福寺の隠居寺だったといい、元禄16年(1703)の大地震で倒壊、享保3年(1718)に真融法印が中興したといいます。
新編武蔵風土記稿による薬王寺の縁起
(太田村)薬王寺
永引、三畝、西組にあり。同宗同末(古義真言宗東福寺末)、瑠璃光山と号す。本堂六間に四間巽向き、本尊薬師坐像長一尺四五寸。(新編武蔵風土記稿より)
「横浜市史稿 佛寺編」による薬王寺の縁起
藥王寺
位置
藥王寺は東醫山と號し、中區南太田長字西中耕地千七百五十一番地にある。境内は百四十一坪。民有地。同所東福寺の末寺で、寺格は十五等、市内觀音三十三所の第四番、同弘法大師二十一箇所の第七番の靈場である。
沿革
昔は東福寺の隱居所であつたと云ふのみで、創立の年代を傳へない。寛永十年二月十五日議定の關東古義眞言宗本末帳に、東福寺の末寺として記してある。元祿十六年十一月二十三日、大地震に罹つて倒潰し、享保三年に、眞融法印が中興した。新編武藏風土記稿には、瑠璃光山とし、永引三畝、本堂六間に六間半、巽向。本尊藥師、云々。と載せてある。大正十二年九月一日の大震火災に罹災して、本堂 草葺。及び庫裡 三間、四間半、草葺。等の悉くを倒潰燒失したが、昭和二年十一月に、假堂の造立を遂げた。
本尊
本尊は藥師如來の坐像、一尺五寸許、寶永年中の造立である。造像記があつたが、震火災に燒失した。
附記。市内觀音第四番礼所の本尊千手觀世音、竝に市内大師七番靈場の本尊弘法大師が安置してあつたが、共に震火災に燒亡した。(「横浜市史稿 佛寺編」より)
「南区の歴史」による薬王寺の縁起
東医山薬王寺
往昔は東福寺俗に赤門東福寺と呼ばれる寺の隠居所であったといわれるが、草創の年代は明らかではない。元禄一六年(一七〇三)一一月二三日大地震に罹災し堂宇は倒壊した。その後享保三年(一七一八)に、真融法印が中興したという。
大正一二年九月一日の大震火災に罹災して本堂、庫裡などことごとく倒壊焼失した。昭和二年一一月に仮堂の建立を遂げたが、昭和二〇年五月二九日の横浜大空襲によってこれも焼失、昭和二七年一一月吉祥日上棟をなし、翌二八年落慶したのが、奈良薬師寺になぞらえた間口五間半、奥行五間の本堂であって、向拝のない、おもむきのある建造物である。
庫裡は間口四間、奥行四間、総二階の洋式で昭和四八年六月竣工した。昭和二七年一一月本堂建立の棟礼には「瑠璃光山薬王密寺」となっている。(「南区の歴史」より)
薬王寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「横浜市史稿 佛寺編」
- 「南区の歴史」(南区の歴史発刊実行委員会)