西中山常照寺。明治元年説教所として創建
常照寺の概要
日蓮宗寺院の常照寺は、西中山と号します。常照寺は、中山法華経寺の慈教院日修上人が開基となり1868年(明治元年)説教所として創建、明治12年常照寺と号したといいます。
山号 | 西中山 |
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院号 | - |
寺号 | 常照寺 |
住所 | 横浜市南区南太田1-24-41 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
常照寺の縁起
常照寺は、中山法華経寺の慈教院日修上人が開基となり1868年(明治元年)説教所として創建、明治12年常照寺と号したといいます。
「横浜市史稿 佛寺編」による常照寺の縁起
常照寺
位置
常照寺は、西中山と號し、中區南太田町千四百十三番地にある。境内は五百八十一坪。大本山千葉縣中山法華經寺の末寺で、紫金襴四等である。
沿革
中山法華經寺の貫主慈敎院日修聖人の開基である。明治の初年、日修聖人此地をトし、將來發展の望みあるを知り、敎會所を設立した。これが當寺の濫觴である。爾來聖人の努力空しからず、年と共に繁昌に赴いたので、明治十二年八月、寺號公稱の認可を得、同年十月十八日に、開堂供養を行つた。明治四十三年八月、裏山が崩壊して、本堂を倒壊した。第三世服部存忠、再建を企て、大正二年、工を起し、同六年に、竣功を遂げた。然るに同十二年九月一日、大震災に遭ひ庫裡は倒潰したので、翌十三年四月、復舊の工を起し、十一月落成した。これが今日の建物である。
本尊
本尊は釋迦如來・多寶如來、竝に四菩薩・文珠・普賢・持國・毘沙門・日蓮上人等である。脇壇の本尊、鬼子母神は、初め千代田城内に安置してあつたもので有るが、中山法華經寺に移り、再び本寺に移つたと云ふ。横濱社會辭彙。(「横浜市史稿 佛寺編」より)
「南区の歴史」による常照寺の縁起
西中山常照寺
当寺は中山法華経寺の貫主慈教院日修聖人の開基である。明治初年、日修聖人が此の地は、横浜開港後の後背地として人口の増加、将来発展の望みあるを予知して教会所を設立した。これが当寺の濫觴である。明治一二年八月、寺号公称の認可を得、同年一〇月一八日に開堂供養を行なった。明治四三年八月一日から一四日まで、連日大雨を降らせ水害をおこした前線と二つの台風が重なって、当寺も裏山が崩壊して本堂を倒壊した。三世温厚院日義上人(服部存忠)は、堂宇再建につとめ、大正二年工を起し、同六年に竣工を遂げた。大正一二年九月一日の関東大震災に遭遇し、庫裡は倒壊したが、翌一三年四月着工し式台付玄関を有する庫裡が一一月落成した。(「南区の歴史」より)
常照寺所蔵の文化財
常照寺所蔵の鬼子母神像は、江戸時代大奥に祀られていた鬼子母神像だといいます。
- 鬼子母神像
常照寺の周辺図
参考資料
- 「横浜市史稿 佛寺編」
- 「南区の歴史」(南区の歴史発刊実行委員会)