普門院。横浜市南区西中町にある高野山真言宗寺院

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福智山普門院。東国八十八ヵ所霊場、横浜觀音三十三観世音霊場、横浜弘法大師二十一箇所

普門院の概要

高野山真言宗寺院の普門院は、福智山不動寺と号します。普門院の創建年代等は不詳ながら、かつては東福寺境内にあったといい、享保年間(1716-1735)に伝栄法印が中興したといいます。東国八十八ヵ所霊場35番、横浜觀音三十三観世音霊場3番、横浜弘法大師二十一箇所6番です。

普門院
普門院の概要
山号 福智山
院号 普門院
寺号 不動寺
住所 横浜市南区西中町1-2-6
宗派 高野山真言宗
葬儀・墓地 -
備考 -



普門院の縁起

普門院の創建年代等は不詳ながら、かつては東福寺境内にあったといい、享保年間(1716-1735)に伝栄法印が中興したといいます。

新編武蔵風土記稿による普門院の縁起

(太田村)普門院
永引、三畝一歩、中組の内にあり。同宗(古義真言宗)東福寺末、福智山普門院と号す。本堂七間に五間半巽向、本尊不動を安ず。立身長二尺許。(新編武蔵風土記稿より)

「横浜市史稿 佛寺編」による普門院の縁起

普門院
位置
普門院は、福智山不動院と號し、中區南太田町字西中耕地千七百七十五番地にある。境内は三百九十二坪。同所東福寺の末寺に屬し、寺格は七等で、市内觀音三十三所の第三番、同弘法大師二十一所の第六番の靈場である。
沿革
祐榮法印の開基に係るといふが、其年代は不詳。ロ碑に據れば、昔、本山東福寺の境内に在ったと云ふ。元禄十年二月十五日議定の關東古義眞言宗本末帳には、東福寺末と見え、過去帳には、享保年間、傅榮法印が中興したことが載せてあり、新編武藏風土記稿には、永引三畝一歩、本堂七間に五間半、巽向と記してある。大正十二年九月一日、大震火災に罹り、本堂(桁行五間、梁 間八間、瓦葺。)・庫裡(桁行四間半、梁行九間半。)を始め、一山は焦土と化したが、大正十四年七月に、早くも復興を遂げた。
本尊
本尊は不動明王の立像、長二尺許。
附記。脇本尊十一面觀世音、竝に千手観世音は、市内札所の本尊と仰がれて居たが、震火災の爲めに燒失し、叉、三體の地藏菩薩も、共に其厄に罹った。
堂宇
現今の堂宇は、本堂(桁行八間、梁間七間、入母屋造亞鉛葺。)・庫裡(桁行四間半、梁間四間半、亞鉛葺。)である。
境内佛堂
境内佛堂、歡喜天堂(桁行三間、梁間五間、亞鉛葺。)の本尊は歡喜天である。元は十一面觀世音菩薩をも安置してあつたが、震火災に罹って燒失し、叉、松平定信筆の歡喜天の書額も掲げてあつたが、同様に燒失した。
大師堂(桁行六尺、梁間六尺、亞鉛葺。)には四國八十八箇所の本尊を摸した八十八體の靈像が安置してあつたが、震火災に燒失した。(「横浜市史稿 佛寺編」より)

「南区の歴史」による普門院の縁起

福智山不動寺普門院
祐栄法印の開基と伝えられるが年代は詳ではない。享保年間(一七一六~一七三五)に伝栄法印が中興したと過去帳にあるが、大正一二年の関東の大震災に一山焦土と化し、昭和二〇年五月二九日の横浜大空襲にも、間口八間、奥行七間、入母屋造の本堂と庫裡は共に焼失した。昭和四三年一〇月二七日、鉄筋コンクリート造間口七間、奥行七間、廻廊付五一坪の本堂が落慶した。(「南区の歴史」より)


普門院の周辺図

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「南区の歴史」(南区の歴史発刊実行委員会)
  • 「横浜市史稿 佛寺編」