子神社|横浜市中区日ノ出町の神社

猫の足あとによる横浜市寺社案内

子神社|旧称不入斗宮、旧村社

子神社の概要

子神社は、横浜市中区日ノ出町にある子神社です。子神社の創建年代等は不詳ながら、推古天皇の時代(600年頃)の創建とも伝えられ、赤門東福寺が別当寺を務めていたといいます。文禄3年(1595)には松平越前守が制札を掲げたことから不入斗宮とも称されたといいます。慶応元年(1865)に近隣の諸社を合祀、明治6年村社に列格、大正5年神饌幣帛料供進社に指定されていました。

子神社
子神社の概要
社号 子神社
祭神 大国主大神
相殿 -
境内社 -
住所 横浜市中区日ノ出町2-132
祭日 例大祭8月21日
備考 -



子神社の由緒

子神社の創建年代等は不詳ながら、推古天皇の時代(600年頃)の創建とも伝えられ、赤門東福寺が別当寺を務めていたといいます。文禄3年(1595)には松平越前守が制札を掲げたことから不入斗宮とも称されたといいます。慶応元年(1865)に近隣の諸社を合祀、明治6年村社に列格、大正5年神饌幣帛料供進社に指定されていました。

新編武蔵風土記稿による子神社の由緒

(太田村)
浅間社
除地、十五間に二十間、村の中央より少し南にあり。当社あるを以其処を富士塚と云。小社にて覆屋あり。東福寺持、下同じ。
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天神社
除地、十八間に十二間、中央より少し東によりてあり。其地の字を天神山と云。小社南向、覆屋あり。
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稲荷社
除地、二間四方、南の方によれり。是も小社にて覆屋を設く。下四社も同じ。大光院持。
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第六天社
除地、十三間に九間、東の方にあり。是も大光院持。
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稲荷社
除地、七間に九間、同邊にあり。東福寺持。
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山王社
除地、五間に六間、乾の方にあり。蓮華院持。
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太神宮
除地、五間四方、艮の方によりてあり。普門院持。
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稲荷社
除地、二十間四方、南にあり。小社 (新編武蔵風土記稿より)

神奈川県神社誌による子神社の由緒

神社明細帳に「推古天皇の御宇創建と称す、承安年中より代々赤門東福寺これが別当たりしも、同寺は長禄元年今の地に移転、以前毎歳海賊の掠奪を受けしと、天正三年の兵火に罹り、また文政八年火災を蒙りしをもって本社の旧記旧伝共に烏有に帰しその詳細を知るに由なしと雖ども、里俗に里鎮守又は『人不入斗宮』と唱えたり。文禄三年の検地水帳書載の神楽畑四畝十六歩と共に松平越前守が陣営中に編入せられし際、本社の四隅に霊地保護の為、禁制札を掲ぐ。享保八年社地東西四十三間、南北九間と御改めありて神事を此所に奉行せり」とある。境内の楠木は樹高二〇メートル、周り一・八メートルで昭和四十八年横浜市より名木古木に指定せられたが、往時は「人不入斗宮」と称されたほど樹木鬱蒼たる社叢であった。(神奈川県神社誌より)

境内掲示による子神社の由緒

創建は遠く推古天皇の時代(西暦六〇〇年頃)と伝えられる。中世の頃より赤門東福寺が別当(兼務)として管理して来た。神社の古事や伝記は、たびたびの火災や内戦のため焼失無散してしまい、その間事ははっきりしていない。この地域に伝わっている事には、この神社は昔、里鎮守とか不入斗宮と稱していた。文禄三年の時、松平越前守が、神社の霊地保護の為、御本社の四隅に禁制札を掲げ、人の入場を禁じた。享保八年には神社境内地を、東西四十三間(約七八m)南北九間(約十七m)と改められた。慶応元年(一八六五年)には、当時の太田村に原村西中村、上太田地区に祀られていた諸々の神社を合わせて祀ることとなった。明治六年(一八七三年)七月村社に列せられる。(神祇院)大正四年(一九一五年)九月境内を拡張し諸般の設備を完成した。大正五年(一九一六年)十月十三日神饌幣帛料供進社となった。戦後は神社本庁に属す宗教法人となる。(境内掲示より)


子神社の周辺図