吾妻神社|横新田義貞の家臣篠塚伊賀守平重広が勧請
吾妻神社の概要
吾妻神社は、横浜市中区本牧原にある吾妻神社です。吾妻神社は、文和3年(1354)に新田義貞の家臣篠塚伊賀守平重広が勧請したといい、御神体は、漂着して流れ着いた木更津市吾妻神社の御神体だともいいます。明治6年村社に列格していました。
社号 | 吾妻神社 |
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祭神 | 日本武尊 |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷神社 |
住所 | 横浜市中区本牧原29-18 |
祭日 | 例大祭1月17日/7月17日 |
備考 | - |
吾妻神社の由緒
吾妻神社は、文和3年(1354)に新田義貞の家臣篠塚伊賀守平重広が勧請したといい、御神体は、漂着して流れ着いた木更津市吾妻神社の御神体だともいいます。明治6年村社に列格していました。
新編武蔵風土記稿による吾妻神社の由緒
(本郷村)吾妻権現社
除地、五畝八歩、巽の方なり、神體は甲冑を穿ち劔を持たる像なり、いつの頃か此浦に漂着せり、此像もと上總国木更津吾妻村の神體なりしと云傳ふ、小兒の病或は癪を患ふもの、祈れば験あり、快復の後は粟の餅を供すると例とす、天徳寺の持。
末社稲荷社。 (新編武蔵風土記稿より)
神奈川県神社誌による吾妻神社の由緒
当社は文和三年(一三五四)に新田義貞の臣篠塚伊賀守平重広が勧請したもので、御神体に文和甲午三年正月十七日祠基新謹平重広と銘記がある。一説に当社は元南総木更津吾妻村の吾妻社の神体で、甲胃を穿ち剣を持った御姿であるが、浪に漂い給う所を此地の漁師吉太夫と云う者の網にかかったので、天和三年神社を建立し吉太夫を神官としたと伝える。しかし旧神主橋本家所蔵の神祇管領の書類によると、吉太夫は寛政年間の人で一五〇年の相違があり、南総吾妻神社についても不詳である。御神体(延喜年間の鉈彫作)は甲胃を着け給わず御髪は宿祢冠結びで、古代服にたつき形の袴を着用し給い按剣の御姿である。背後に文和三年正月十七日云々平重広とあるによって漂着説よりも篠塚伊賀守の勧請説が正しいと云えよう。但しこの御神体は戦災により焼失し、現在は戦後のものである。当社は「古来より小児の虫の病並びに癪病を煩う者祈れば霊験あり、全快の後は粟餅を献ず」と風土記稿に記している。此の起源は元緑年間以前本牧に役宅があった頃、献穀の虫祓い祈願の霊験があったので、何時か虫癪の病いを煩う者の信仰に転じたと云う。明治六年十二月村社に列した。(神奈川県神社誌より)
吾妻神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿