阿富貴山円満寺。比叡山延暦寺の一坊として草創、天台宗本山別格寺院
円満寺の概要
天台宗寺院の円満寺は、天台宗本山別格阿富貴山安禅院と号します。円満寺は、比叡山延暦寺の一坊として延暦13年(794)に大教院と号して創建、天台座主心盛上人が尊朝親王の旨を奉じて天正13年再建、安禅院と改称したといいます。明治37年の焼失により昭和3年に当地へ名跡を移して再建したといいます。天台宗本山別格寺院です。
山号 | 阿富貴山 |
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院号 | 安禅院 |
寺号 | 円満寺 |
住所 | 横浜市西区久保町50-1 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | 円満寺霊堂 |
備考 | 天台宗本山別格寺院 |
円満寺の縁起
円満寺は、比叡山延暦寺の一坊として延暦13年(794)に大教院と号して創建、天台座主心盛上人が尊朝親王の旨を奉じて天正13年再建、安禅院と改称したといいます。明治37年の焼失により昭和3年に当地へ名跡を移して再建したといいます。
「横浜西区史」による円満寺の縁起
阿富貴山安禅院円満寺(天台宗、本山比叡山延暦寺)
久保町五〇-一。住職西郊良光。本尊白衣観音菩薩。延暦寺の境内寺院大教院が天正十三年(一五八五)の再建に際して安禅院と改称(「市史稿仏寺編」)、関東大震災後、西郊豪顕によって同院名籍を横浜市に移すこととし、昭和三年に移転完了、円満寺と称するに至った。霊殿内に阿弥陀如来立像があり、近年補修されたが室町時代作かといわれ、江戸時代作の本尊白衣観音とともに、端麗な面持ちを有する(松本茂夫「よこはまの古寺と仏像を訪ねて」平成三年、私家版)(「横浜西区史」より)
「横浜市史稿 佛寺編」による円満寺の縁起
安禪院
安禪院は阿富貴山と號し、圓滿寺と日ひ、中區久保町字大谷八百八 八百十二番地に在る。境内は一段歩。第一種 民有地。天台宗山門派延暦寺末、寺格別格である。
當院は元、滋賀縣滋賀郡坂本村延暦寺の境内寺院であつた。寺院明細帳に據ると、延歴十三年九月の創建で、大敎院と號し、延喜元年、宇多法皇が叡山へ行幸の際は、御座所に當てられたことがある。天歴元年、囘祿の厄に罹つて烏有に歸し、再建後、寶塔院と改稱した。康和三年、再び炎上し、永祿十一年再建して、永祿寺と改めた。元龜二年九月、織田信長の爲めに全山燒失した時は、當寺も叉其厄にかゝつて類燒した。其後天正十三年、天台座主心盛上人が尊朝親王の旨を奉じて之を再建し、安禪院と改稱した。明治三十七年、叉々火災に罹り、未だ再建に至らなかったのを、偶、大正十二年の關東大震災の後、現地に觀音堂の建立さるゝ事あつて、十五年五月、同院名籍をこゝに移轉するの企てを起し、昭和二年一月二十八日附を以て其筋の允許あり、翌三年の九月二十日に、移轉終了を告ぐるに至ったのである。
本尊は不動明王。
今の堂宇は、本堂(桁行二間半。梁間二間半。)・客殿(桁行七間。梁間三間半。)・庫裡(桁行三間半。梁間三間半。)で、何れも亞鉛葺である。(「横浜市史稿 佛寺編」より)
円満寺の周辺図
参考資料
- 横浜西区史(西区教育委員会)
- 「横浜市史稿 佛寺編」
- 公式ページ:横浜安禅院円満寺
参考資料
- 新編武蔵風土記稿