宝光寺。本願寺門主の宿として明治5年創始
宝光寺の概要
浄土真宗本願寺派寺院の宝光寺は、本願寺門主の宿として明治5年創始、山梨県北都留郡廣里村字眞木にあった寶光寺の寺籍を移して、大正7年現寺号を公称したといいます。
山号 | - |
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院号 | - |
寺号 | 宝光寺 |
住所 | 横浜市中区桜木町3-5 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
宝光寺の縁起
宝光寺は、本願寺門主の宿として明治5年創始、山梨県北都留郡廣里村字眞木にあった寶光寺の寺籍を移して、大正7年現寺号を公称したといいます。
「全国寺院名鑑」による宝光寺の縁起
明治五年国鉄横浜駅開設に際し、門主の宿として造られた本願寺説教所。大正七年宝光寺となり現在に至る。(「全国寺院名鑑」より)
「横浜市史稿 佛寺編」による宝光寺の縁起
光寺
位置及寺格
寶光寺は、中區櫻木町三丁目五番地及び六番地にある。境内は百七十五坪六合四勺。民有地。西本願寺末で、寺格は平僧である。
沿革
明治維新前から橫濱に集まつた眞宗信徒は、十二日講を組織し、常に法味を享受しつゝあつたが、明治四年十二月、本山は消息を授けて、宗風を顯揚せしむる所があつた。乃ち翌五年八月二十日、其筋の認可を得、同八年十月、平家建瓦葺、間口六間。奧行十二間の本派本願寺の說敎所を現在地に建立した。これが當寺の濫觴である。爾來約五十年、信徒增加して狹隘を告ぐるに至つたので、大正六年八月、改めて桁行八間二尺、梁間九間、階上本堂、階下庫裡、向拜九坪、下屋十五坪の堂宇を建立し、布敎の根本道場となした。翌七年十月三日、山梨縣北都留郡廣里村字眞木なる本願寺末、寶光寺の寺籍を移し、茲に寶光寺と公稱するに至つた。よつて當時の主任藤田順道を以て初代住職となした。大正十二年九月一日の大震火災に燒失したので、大正十五年一月六日、再建を遂げた。これが現今の堂宇である。
本尊
本尊は阿彌陀如來立像、高二尺五寸、京都佛師某の作である。
堂宇
現今の堂宇は、本堂桁行五間、梁間九間一尺、廂の間及び向拜共建坪五十四坪七合三勺八才、入母屋造、亞沿葺。及び庫裡建坪五十二坪六合二勺。である。(「横浜市史稿 佛寺編」より)
宝光寺の周辺図
参考資料
- 「横浜市史稿 佛寺編」
- 全国寺院名鑑
参考資料
- 新編武蔵風土記稿