願成寺。横浜市西区西戸部町にある高野山真言宗寺院

猫の足あとによる横浜市寺社案内

法亀山願成寺。東国八十八ヵ所霊場、横浜三十三観世音霊場

願成寺の概要

高野山真言宗寺院の願成寺は、法亀山地福院と号します。願成寺は、元祐(天文7年1538年化)が開山となり創建したといいます。横浜三十三観世音霊場12番、東国八十八ヵ所霊場31番、横浜弘法大師二十一箇所3番です。

願成寺
願成寺の概要
山号 法亀山
院号 地福院
寺号 願成寺
住所 横浜市西区西戸部町3-290
宗派 高野山真言宗
葬儀・墓地 -
備考 -



願成寺の縁起

願成寺は、元祐(天文7年1538年化)が開山となり創建したといいます。

横浜市教育委員会文化財課掲示による願成寺の縁起

願成寺は、法亀山地福院と号し、高野山真言宗の寺院で、本尊は秘仏の延命地蔵尊です。「新編武蔵風土記稿」に、開山は元祐(天文7年(1538)此の地に住す)と記されています。寺伝に、「天平年間(729-49)行基がこの地を通りかかった時、渇を覚え水を探していると渓谷より1匹の亀がはい出てきた。路傍を掘ると清水が湧き出てきたので、これを飲用し渇を癒した。これよりこの周辺を法亀山と名付け、草堂を創った。この草堂が願成寺の始まりである。」とあります。また、延命桜と呼ばれた行基の杖が根付いたという桜の古木がありましたが、大正時代に枯れてしまいました。寺の南側にある井戸が、行基の飲んだ清水の湧きだした跡と伝え、延命水と呼ばれています。
墓地には、外国人を殺傷して戸部刑場で処刑された清水清次・間宮一(元治元年(1864)に起きた鎌倉事件の加害者)、鳶の小亀(慶応2年(1866)に起きたフランス水兵殺害事件の加害者)、の墓があります。
願成寺の前の道は、保土ヶ谷道と呼ばれ保土ヶ谷宿から戸部村・横濱村に通ずる道で、この先の坂は「くらやみ坂(暗闇坂又は鞍止坂と書く)」といい、安政6年(1859)開港と共に取締り上重要として設けられた関門がありました。
またくらやみ坂脇には牢屋敷が建てられ処刑場も設けられました。その後牢屋敷は、根岸、笹下へと移転しました。(横浜市教育委員会文化財課掲示より)

「横浜西区史」による願成寺の縁起

法亀山地福院願成寺(高野山真言宗、本山高野山金剛峰寺)
西戸部町三-二九〇。住職楠興雅。本尊地蔵菩薩。開山元祐(天文七年-一五三八-没)。寛永十年の「関東真言宗古義本末帳」に願成寺寺内御免とある。創建当時は現在の税関公舎の辺りにあったが、類焼して暗闇坂下に移り、また火災にあって、現在地に移転、再建したといわれる(「市史稿仏寺編」)。寺伝によれば、往昔、行基菩薩が此の地で渇をおぼえたところ、一匹の亀に導かれ、清水で渇をいやした。そこでここを法亀山と号したという。境内墓地には近世戸部村を代表する旧家の墓が数多くあり、また、元治元年(一八六四)鎌倉で英軍将校二名を殺害した清水清治、間宮一や、慶応二年(一八六六)港崎町の遊廓で仏軍水兵を殺した鳶の小亀などの墓がある。(「横浜西区史」より)

「横浜市史稿 佛寺編」による願成寺の縁起

願成寺
位置
願成寺は、法龜山地福院(一に壽福院、又、萬藏院に作る。)と號し、中區西戸部町、西ノ原千五百九十八番地にある。境内八百四坪六合九勺。官有地四百七十七坪、民有地三百二十七坪六合九勺。市内南太田町東福寺の末で、寺格は五等である。
沿革
緣起は明かでない。寺傳には、「口碑に、天平年間、行基菩薩東遊の際、靈龜に感じ、此原野を法龜山と名づけ、草堂を創せしに始まると傳ふるが、往古、屡火難に遭遇せしを以て、今、立證すべきものなし。云々。」とあり、横濱開港五十年記念帖には、「抑も同寺の開山は詳かならざるが、往古は現今の稅關山邊に堂宇も創建しありしものと傳ふ。其後、類燒の災厄に罹り暗闇坂下に移轉せしに、叉、此處に於て二度堂宇を灰燼に歸せしかば、西ノ原卽ち現在地に移り、堂宇を再建せしものにして、同寺は世、杉山神社の別當を兼ねたり。同山の境内に、延命水と稱する舊井あり。往昔、行基菩薩巡錫の砌り、此地を過ぎし時、渇を覺えしが、飲用すべきものなく、頗る當惑せる折柄、溪谷の間より靈龜這出し、路傍を掘りしに、忽ち淸水湧出せしかば、菩薩は之を飮用し、渇を醫せり。是れより比邊を法龜山と稱せりと傳ふ。叉、此附近に、延命櫻といふ古木あり。其緣起詳かならず。」と載せてある。前項に引いておいた戸部村記錄には、大境寺は願成寺と號し、臨江寺は大聖院と號したと記してあるけれど、大境寺・臨江寺の名は、永祿の北條役帳に出で、臨江寺の名は更に元祿の村明細帳にも書かれて居るのを見れば、此記錄には信を措き難いのである。新編武藏風土記稿には、開山元祐、天文七年十二月二十五日化すとある。之に據れば、當寺は享祿・天文の頃の起立と見ても然るべき様に思はれる。寛永十年二月十五日議定の關東古義眞言宗本末帳に、東福寺末寺内 御免。と見え、新編武藏風土記稿に、除地一段、本堂六間に七間、本尊地蔵を安ずと載せてある。明治維新の際までは、杉山神社の別當を兼帶して居た。明治四十一年、現住の楠妙禪が、本堂の再建を企て、五萬圓の淨財を募つて工事を起し、四十三年九月を以て、九間四方の莊嚴な殿堂の落成を遂げたが、惜しむべし、大正十二年九月一日の大震火災に灰燼となつた。災後、假本堂を建築した。これが今日の堂宇である。
本尊
本尊は、地藏菩薩の立像。
堂宇
今の堂宇は、本堂及び庫裡で、共に亞鉛葺の假建築である。
境内佛堂
境内佛堂、地藏堂。門前の右側にあつて、大正二年三月の建立である。本尊地藏菩薩は、寛永年間に、土地の有志が無緣佛供養の爲めに建立した所で、元は西ノ原千五百五十七番地に在つたが、近年こゝに移して安置したのである。尙、附近から集めた地藏菩薩數體もこゝに安置してある。叉、新に弘法大師をも造立安置した。今の堂宇は震火災に燒失した後の再興で、建坪五合ある。(「横浜市史稿 佛寺編」より)

新編武蔵風土記稿による願成寺の縁起

(戸部村)願成寺
除地、一段許、西の方にあり、古義真言宗、太田村東福寺末、此下三ヶ寺同寺の末なり、法亀山地福院と號す、開山元祐天文七年十二月二十五日化す、本堂六間に七間、本尊地蔵を安せり。(新編武蔵風土記稿より)


願成寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿