法立山願西寺。明治34年当地へ移転
法立山願西寺の概要
真宗大谷派寺院の願西寺は、法立山と号します。願西寺の創建年代等は不詳ながら、岐阜県海津郡高須町にあったといいます。揖斐川改修工事に伴い移転せざるを得なくなり、明治34年当地へ移転、住職佐々木覺音が中興したといいます。
山号 | 法立山 |
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院号 | - |
寺号 | 願西寺 |
住所 | 横浜市中区山手町179-6 |
宗派 | 真宗大谷派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
法立山願西寺の縁起
願西寺の創建年代等は不詳ながら、岐阜県海津郡高須町にあったといいます。揖斐川改修工事に伴い移転せざるを得なくなり、明治34年当地へ移転、住職佐々木覺音が中興したといいます。
新編武蔵風土記稿による法立山願西寺の縁起
江戸期武蔵国内になかったため掲載なし(新編武蔵風土記稿より)
「横浜市史稿 佛寺編」による法立山願西寺の縁起
願西寺
位置及寺格
願西寺は、法立山と號し、中區末吉町三丁目六十一番地にある。境内は百六十坪。東本願寺末で、寺格は準二等別助音地である。當寺は明治三十四年、美濃國海津郡高須町福岡から移轉建立したものである。此年、舊地美濃國にて三大河の改修工事が行はれ、其爲め寺地移轉の止むなきに至つたので、住職佐々木覺音は、嘗で巡錫の砌、當地には同宗布敎の餘地あるを感じて居たので、茲に當市を選定して、移轉を決行したと云ふ。同四十四年七月、堂宇を再建したが、不幸にして同月、暴風の爲めに倒潰の禍に罹つたので、信徒宮川磯吉が主力となりこれが復興を計り、同年十二月、其竣工を遂げた。其本堂は桁行七間、梁間八間、瓦葺であつたと云ふ。大正十二年九月一日
再び大震火災の厄に遭い、全山焦土と化したが、翌十三年八月、早くも本堂の再建を遂げ、同年十月庫裡の造立を告げ、昭和二年十二月、鐘樓の再造を了り、茲に復興の完成を見るに至つたのである。
本尊
本尊は阿彌陀如來立像、高二尺五寸。
堂宇
現今の堂宇は、本堂桁行七間、梁間六間、入母屋造、亞沿葺、向拜破風造。・庫裡桁行七間半、梁間三間、亞沿葺。及び鐘樓である。
檀家
檀家は千戸。
住職世代
中興開山佐々木覺音。明治三十四年、當寺を美濃國より當市に移して中興。大正十二年九月一日、地震の爲に入滅。第二世靈音。現住。(「横浜市史稿 佛寺編」より)
法立山願西寺の周辺図
参考資料
- 「横浜市史稿 佛寺編」
参考資料
- 新編武蔵風土記稿