長尾台御霊神社|横浜市栄区長尾台町の神社

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長尾台御霊神社|長尾為景が村岡村苫前御霊神社の分霊を勧請

長尾台御霊神社の概要

長尾台御霊神社は、横浜市栄区にある御霊神社です。長尾台御霊神社は、鎌倉権五郎景政の玄孫景弘が当地に居館を構えて在住し長尾氏と改称、その長男為景が村岡村苫前御霊神社の分霊を勧請して創建したといいます。明治22年十二天社を合祀しています。当地は、後に上杉謙信(長尾景虎)を輩出する長尾氏の発祥の地だといいます。

長尾台御霊神社
長尾台御霊神社の概要
社号 御霊神社
祭神 鎌倉権五郎景政、大国主命
相殿 -
境内社 -
住所 横浜市栄区長尾台町372
祭日 例大祭9月第4日曜日(命日9月18日)
備考 -



御霊神社の由緒

長尾台御霊神社は、鎌倉権五郎景政の玄孫景弘が当地に居館を構えて在住し長尾氏と改称、その長男為景が村岡村苫前御霊神社の分霊を勧請して創建したといいます。明治22年十二天社を合祀しています。

新編相模国風土記稿による御霊神社の由緒

(長尾臺村)
御靈社
村の鎮守とす、圓覺寺塔頭龍隠庵蔵、永正六年庵領年貢目録二、御靈分二段と記せしは當社領を云へるなるべし、例祭十一月十六日、村持下同、(新編相模国風土記稿より)

神奈川県神社誌による御霊神社の由緒

鎌倉権五郎景政の玄孫景弘、始めて長尾の地に住し長尾次郎と称した。その長子新五為景が、祖先を奉斎せる村岡村苫前御霊神社の分霊を勧請したものである。明治二十二年八月、十二天社を合祀した。(神奈川県神社誌より)

「戸塚区郷土史」による御霊神社の由緒

御霊神社(長尾台町宮前三七二番地)
祭神は鎌倉権五郎景政と大国主命の二柱。景政の玄孫景弘は長尾の地に住して長尾次郎といった。この景弘が長尾氏の祖であり、その長子新五為景が祖先を奉祀するため、村岡郷宮前の御霊宮の分神を勧請したのが当社創建のはじめであるという。(「戸塚区郷土史」より)


御霊神所蔵の文化財

  • 戦国大名、上杉謙信の祖長尾氏の居館跡

長尾氏の居館跡

保元・平治の乱後、平清盛政権時代となり伊豆に流されていた頼朝が平家打倒の兵を石橋山で挙げたのは治承四年(一一八〇)八月のことだった。
このとき平家側の総大将は大場景親で、先陣は弟俣野五郎景尚と家臣、当長尾台の長尾兄弟。源氏は岡崎義実の嫡男真田与一、陶山文三主従だったが、与一の討死で敗れた頼朝等は山中を逃げまどい五日後、岩浜から暴走へ船で敗走したことは戦記に大書されている。
渡海後の頼朝は房総の豪族を御家人とし反撃に転じた。鎌倉入りには当初、頼朝に敵対した武相の豪族等が御家人として加わり、長尾兄弟も亦同様だったが俣野氏は生涯を平家に尽くした。
頼朝は平家を亡ぼし鎌倉幕府を樹立したが頼朝死後は北条氏の時代となった。しかし元弘三年(一三三三)北条氏も新田義貞によって滅ぼされ、南北朝争乱で勝者となった足利氏は京の室町幕府の出先機関として鎌倉府を設けた。長尾氏は是に仕え次第に強大となり、戦国時代に長尾景虎はついに上杉謙信と称し、関東管領から戦国大名として北は出羽、南は上野、西は加賀に至る広大な領土を有した大大名として知られた。
この長尾台は戦国史を飾る名称上杉謙信の先祖、長尾氏の発祥の地である。(大正地区歴史散歩の会掲示より)

長尾台御霊神社の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿