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猫の足あとによる横浜市寺社案内

中村山長慶寺。横浜市栄区中野町にある真宗大谷派寺院

長慶寺の概要

真宗大谷派寺院の長慶寺は、中村山天岳院と号します。長慶寺の草創は不詳ながら、天台・真言を兼修した密教の道場として大船玉縄にあったといいます。執権北条泰時が、鎌倉八幡宮寺の一切経を校合した際に同席していた親鸞上人に当寺の住持超世が弟子となり、浄土真宗に改め、その際に親鸞上人自刻の聖徳太子像を与えられたといいます。大阪の石山本願寺と織田信長が争った石山合戦の時には、当時の住持實好普古も参戦、戦後玉縄に戻ったものの、小田原北条氏に寺を破壊されていたため、当地へ移転し庵室を構えていたところ、小田原北条氏は滅亡、代わって入国した徳川家康が当寺へ立ち寄り水を所望したのがきっかけとなり、再建資金を寄附され、さらには徳川家光より寺領13石の御朱印状を慶安2年(1649)拝領したといいます。

長慶寺
長慶寺の概要
山号 中村山
院号 天岳院
寺号 長慶寺
本尊 虚空蔵菩薩像
住所 横浜市栄区中野町40
宗派 真宗大谷派
葬儀・墓地 -
備考 -



長慶寺の縁起

長慶寺の草創は不詳ながら、天台・真言を兼修した密教の道場として大船玉縄にあったといいます。執権北条泰時が、鎌倉八幡宮寺の一切経を校合した際に同席していた親鸞上人に当寺の住持超世が弟子となり、浄土真宗に改め、その際に親鸞上人自刻の聖徳太子像を与えられたといいます。大阪の石山本願寺と織田信長が争った石山合戦の時には、当時の住持實好普古も参戦、戦後玉縄に戻ったものの、小田原北条氏に寺を破壊されていたため、当地へ移転し庵室を構えていたところ、小田原北条氏は滅亡、代わって入国した徳川家康が当寺へ立ち寄り水を所望したのがきっかけとなり、再建資金を寄附され、さらには徳川家光より寺領13石の御朱印状を慶安2年(1649)拝領したといいます。

新編相模国風土記稿による長慶寺の縁起

(中之村)中野
長慶寺
中村山天岳院と號す、浄土真宗(東六條本願寺末)古は顯密二宗を兼し道場なりしを、住僧超譽が時當宗に歸依し遂に改宗す、當時は玉縄の邊に在しとなり、中興開基實好普古は(本願寺九世、實如が孫なりと云ふ、寛永十五年十月十五日寂す、年九十九)石山の合戦に赴援し、十餘年の後和平なりて漸歸國に及びしかど蛋く兵亂の爲に堂宇悉く荒廢せし故、姑く今の地を卜して草庵を營み住めり、かくて慶長の初、東照宮放鷹の路次爰に御駕を寄せられ、喫水を乞ひ給ひしかば寺内の清泉を汲て献せし時上意に任せ、當寺久しく廢凶の旨趣を言上せしかば、同十六年藤澤御殿に召れ再建の資用として金子を賜へり、是より務めて再造せしと云ふ、本尊(運慶作、長三尺三寸五分、)彌陀及び聖徳太子の像(親鸞作、長六寸八分、鎌倉七太子の一と云ふ、)を安ず、寺領十三石は慶安二年八月御朱印を賜ふ、寺中に光輝寺(寛永七年順慶建つと云ふ、)永昌坊(元和九年了順建つと云ふ、)と號する支院二宇ありしが今は共に廢せり、
【寺寶】
茶碗一口(素焼なり、是先に清泉を汲て、東照宮に奉りし器なりと云、)
阿彌陀像一軀(如信作)
同畫像二軸(一は恵心筆、一は蓮如筆、)
九字名号一幅(親鸞筆、此餘書畫幅多くあれども、信を取に足らず、故に漏せり、)
鐘樓、延寶七年鑄造の鐘をかく、
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観音堂跡
長慶寺傍にあり公田村観音堂の舊地と云ふ、(新編相模国風土記稿より)

「戸塚区郷土史」による長慶寺の縁起

長慶寺(中野町四〇番地)浄土真宗東本願寺派
中村山天岳院と号し、東六条本願寺の末で、往古は玉繩辺にあった顕密二宗を兼ねた寺院であったといわれ、住僧超世のとき、浄土真宗に改宗したという。中興開基を実好普古(寛永十五年に九十九才で寂)といい、普古は石山の合戦=一向一揆に参加した僧といわれ、合戦後帰国、玉繩の地から現在地に草庵を移したが、その後荒廃におよんでいた慶長の始め、たまたま徳川家康は放鷹の途次当庵にお休息され、当寺の廃朽の旨を聞かれ、同十六年住持を藤沢御殿に召し、再建資として金子若干を下賜され、これが縁で復興が成ったという。本尊阿弥陀如来(三尺三寸五分)は運慶作と伝えられ、また聖徳太子像は鎌倉七太子の一で、親鸞作という伝承をもっている。(「戸塚区郷土史」より)

横浜市栄区役所掲示による長慶寺の縁起

長中村山天岳院と号し、慶長年間(1596~1615年)に現在地に開創されたと伝えられている。この寺は古く大船の玉縄にあり、天台・真言を兼修した密教の道場であったと云われているので、平安末期の開山と考えられる。鎌倉時代、三代執権北条泰時とその子時氏が、鎌倉八幡宮寺の一切経を校合した折、それに参加した当時の住持超世が、同席した浄土真宗の開祖、親鸞上人の学徳に感じて弟子となり、真宗に改宗したと伝えられている。親鸞は小菅ヶ谷のや宿山の太子矢倉にこもって7体の聖徳太子像を刻み、弟子達に与えたと伝えられており、超世もその1体を与えられたという。戦国時代の末、大阪の石山本願寺と織田信長が争った石山合戦の時、当時の住持実好普古は、超世が親鸞から与えられた聖徳太子像を背負い、大阪に馳せ参じ、本願寺門主顕如の長男教如の側近として織田軍と戦ったという。その後、本願寺が信長と和睦したため玉縄に帰ったが、寺は信長に加担した小田原北条氏によって破壊され、門徒も四散していた。そこで、現在地に草庵を作って住したと伝えられている。
天正19年(1591年)豊臣秀吉は本願寺を京都の堀川に移し、翌年顕如が没したので、教如が門跡を継いだ。
しかし、秀吉は教如が和睦に反対であったとして強制的に隠居させ、次男の准如を門跡とした。そこで普古は教如の元側近として、たびたび教如を訪ねて慰めたという。
慶長3年(1598年頃)、教如は徳川家康と親交を持つようになり関東に下向したが、この時普古も家康に拝顔したという。その後普古は草庵で念仏三昧でくらしていたが、ある時領内見聞に来た家康が草庵を訪れ、水を所望した。普古は家康と気付かず、古茶碗で見ずを出すと、家康も普古とは知らず「うまい水だ、もう一杯くれ・余は家康である。」と名のった。これが縁で家康は境内山林と本堂再建の資金を寄進し、寺はこの地に立派に再建されたという。更に、家康はおいしい水を飲んだ古茶碗と引きかえに立派な茶碗を下附した。この地の山は「水の口山」ともいわれ、良い水が出る所である。三代将軍家光は寺領13石の朱印状を与え、徳川氏は代々家康ゆかりの寺として保護した。
明治13年火災のためほとんどすべてを焼失したが、家康から拝領した茶碗は現在も残っている。(横浜市栄区役所掲示より)


いいお墓

長慶寺の周辺図