富塚八幡宮|源頼義・義家が奥州下向の途次に創建、旧郷社
富塚八幡宮の概要
富塚八幡宮は、横浜市戸塚区にある神社です。富塚八幡宮は、源頼義・義家が奥州へ向う途中、延久4年(1072)社殿を造営したといいます。明治6年郷社に列格、牛頭天王社・八雲神社・磯崎社・竜人・健御名方命などを合祀したといいます。
社号 | 富塚八幡宮 |
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祭神 | 誉田別命、富属彦命(相模国造二世孫) |
相殿 | - |
境内社 | 玉守稲荷、冨塚天神 |
住所 | 横浜市戸塚区戸塚町3827 |
祭日 | 例大祭8月第1日曜日 |
備考 | - |
富塚八幡宮の由緒
富塚八幡宮は、源頼義・義家が奥州へ向う途中、延久4年(1072)社殿を造営したといいます。明治6年郷社に列格、牛頭天王社・八雲神社・磯崎社・竜人・健御名方命などを合祀したといいます。
新編相模国風土記稿による富塚八幡宮の由緒
(戸塚宿)八幡宮
例祭八月朔日大己貴命を相殿とす。
末社。稲荷、龍神、建御名方命、客人明神。
神職柴田大内蔵京吉田家の配下なり。(新編相模国風土記稿より)
境内掲示による富塚八幡宮の由緒
平安時代、前九年の役平定のため源頼義・義家が奥州に下る途中、この地にて応神天皇と富属彦命の御神託を蒙り、其の加護により戦功を立てる事が出来たのに感謝をして、延久四年(西暦一〇七二年)社殿を造り両祭神をお祀りしました。
社殿後方の地は富属彦命の古墳であり、これを富塚と称した事により戸塚の地名が発祥したと伝えられています。
戸塚(富塚)一族は昔この地に住み、当神社を氏神として崇敬しておりました。現在全国に散らばる戸塚姓富塚姓の方々の守護神でもあります。
現在の本殿は天保十四年、拝殿は昭和九年の造営になります。
明治六年には其の由緒を以って戸塚・泉・瀬谷・栄区唯一の郷社(近郷を鎮守する神社)に列せられました。(境内掲示より)
「戸塚区郷土史」による富塚八幡宮の由緒
神社明細帳には「人皇七十代後冷泉院康平五年(一〇六二)源頼義奥羽朝敵征伐の際、富樛木の森に泊せしとき、兜の八幡座の玉を以て、富塚正八幡を権請し、其後権五郎景政の臣戸塚脩六友晴信仰本社再興」と記し、旧記には源頼義がその夜の夢に、誉田別命と富属彦命の神告をこうむり、奥州平定の功を成しとげることができたので、報賽のために延久四年(一〇七二)五月八幡大神を権請し、富属彦命を相殿にいつきまつったとしている。これによれば源頼義の奥州平定が契機となっており、両書軌を一にしているが、明細帳は平定前とし、旧記は平定後のこととしている。而して富属彦命は相模国造弟武彦命の二世の孫で、県主または稲置といわれ、境内山頂の前方後円墳はその人の古墳、また富塚の地名はこれより起るとも伝承されている。
降って明治六年十二月郷社に列せられ、昭和十二年本殿(一間に一間半)拝殿(三間に四間)を改築、戦後富塚幼稚園を設けた。なお末社に稲荷社・客人社・天神社・御嶽大権現があり、合祀されたものに牛頭天王社・八雲神社・磯崎社・竜人・健御名方命などがおる。
例祭は八月一日、氏子三千戸をこえ、祭礼は非常なにぎわいをみせている。なお境内に「鎌倉を生きて出でけむ初松魚」という芭蕉の句碑が当地の俳人によって造立されている。(「戸塚区郷土史」より)
神奈川県神社誌による富塚八幡宮の由緒
前九年役平定のための源頼義・義家父子が奥州下向の途次、当地に露営し、夢に応神天皇及び富属彦命の神託を蒙り、その加護によって戦功を収めたので、延久四年(1072)富塚山中腹に社殿を営み両祭神を勧請したものである。後に鎌倉権五郎景政の臣・戸塚修六友晴は、当社の霊験の灼なるを畏み、応徳三年に社殿を再建した。現在の本殿は天保十一年、拝殿は昭和九年の改築になる。
富塚彦命は相模国造弟武彦の二世の孫で、境内山頂の古墳がその墓と伝え、これを富塚(トミツカ)と称し、やがて「トツカ」となったのが、「戸塚」の地名の起りと伝える。明治六年十二月、戸塚区唯一の郷社に列せられている。(神奈川県神社誌より)
富塚八幡宮の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿