龍臥山永勝寺。関東六老僧の一人誓海開山、笠乞太子像
永勝寺の概要
真宗大谷派寺院の永勝寺は、龍臥山祥瑞院と号します。永勝寺の創建年代等は不詳ながら、天台宗寺院だったといいます。浄土真宗宗祖親鸞上人が大蔵経を書写するために国府津道場から鎌倉へ往復している際に親鸞に帰衣して浄土真宗寺院に改めたといいます。親鸞上人が京へ戻った後、関東六老僧の一人誓海が当寺を開山、その後、小田原北条氏の迫害を受けた際に甲州へ逃れ、後年当地へ戻ってきた時に小田原北条氏の圧迫をさけるため、永勝寺と改めたといいます。また、当寺の聖徳太子像は、戦国時代に堂宇が破損、笠をきせてくれと呟いたことから、笠乞太子と呼ばれています。
山号 | 龍臥山 |
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院号 | 祥瑞院 |
寺号 | 永勝寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 横浜市戸塚区下倉田町1021 |
宗派 | 真宗大谷派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
永勝寺の縁起
永勝寺の創建年代等は不詳ながら、天台宗寺院だったといいます。浄土真宗宗祖親鸞上人が大蔵経を書写するために国府津道場から鎌倉へ往復している際に親鸞に帰衣して浄土真宗寺院に改めたといいます。親鸞上人が京へ戻った後、関東六老僧の一人誓海が当寺を開山、その後、小田原北条氏の迫害を受けた際に甲州へ逃れ、後年当地へ戻ってきた時に小田原北条氏の圧迫をさけるため、永勝寺と改めたといいます。また、当寺の聖徳太子像は、戦国時代に堂宇が破損、笠をきせてくれと呟いたことから、笠乞太子と呼ばれています。
新編相模国風土記稿による永勝寺の縁起
(下倉田村)
永勝寺
浄土眞宗(東六條本願寺末、)龍臥山祥瑞院と號す、本尊彌陀(海中出現の像にて、隣郷の人、金子道順と云る、禅宗の優婆塞、鎌倉由比濱にて感得する所と云ふ、)又聖徳太子の木像を安ず、笠乞太子と呼り(長四尺、親鸞作、古は別堂に安ぜしが、戦國の頃、堂宇損廢して木像雨露に侵されしに、雨夜笠をきせしと、呼ぶ者ありしかば、里人怪しみ、其聲に就て尋ぬるに、木像の邊に至て、其聲止ぬ、因て里人随喜に堪へず、直に本堂に移せしとぞ、故に此號ありと云ふ、)太子自作の小像を腹籠とす、此像及境内彌陀堂の本尊は桂昌院殿の御内覧に入御紋章を縫へる戸張二懸及銀五錠を賜ひしとて今に蔵す、當寺昔は台宗の古刹なり、親鸞關東化益の時住僧眞宗に歸依し、改宗す、親鸞国府津の道場(足利下郡国府津村の屬)より當寺に来住する七年(大谷遺跡録曰、安貞二年より文暦元年に至るまで、高祖国府津道場より、鎌倉に往返し、多くはこれに在、武蔵守泰時、蔵經書寫の時、選擧せられしも、當寺に在し内なり、)歸洛の後高弟誓海住職す、(海は覺信坊眞佛の孫源海の子、當宗は關東六老僧の一なり、
故に今海を開山と稱す(正和五年五月廿八日卒)寺號初は長延寺と稱す、後年武田信玄當寺お僧を屈請して甲陽に一宇を建、亦長延寺と唱へ、兼住せしむ、後故ありて今の寺號に改むと云(此時甲州の寺も光澤寺と改むと云へり、一説に北條武田戦争の頃、當寺武田氏に所縁あるを以、北條氏の爲に、堂宇没却せられ、住僧甲府に走り、一寺を建、光澤寺と號す、其後舊地に歸り、當寺を再興の時、北條氏の聞えを憚り永勝寺と改むと云へり、)
【寺寶】
親鸞眞影一幅。(舊は親鸞作、七高僧の木像、及自作、常盤の木像と云へるを安置せしが、七高僧の像は、宣如の時、本山に収め、常盤の像は戦國の時、散失して、近隣長沼村、正安寺に安置せしを、寛永十二年、本山の宣如が乞申により、正安寺に、台命を下されしかば、遂に本山に任せり、此時其始、當寺の珍寶たりし故をもて、本山より附與ありし、其模影是なりと云ふ)
十字名号一幅(親鸞筆、)
法然自畫像一幅
光明品一幅(覺如筆、)
六字名号二幅(一は蓮如筆、一は實如筆、)
九字名号二幅(蓮如六歳の筆と云)
沉ノ枕一枚(模を畫り、北條時氏、親鸞に贈る所と云、長三寸、幅二寸五分、)
彌陀堂。元は境外にあり(字彌陀堂屋敷と呼、今に除地たり、)域内に移せし年代傳はらず、本尊や面掛如来と唱ふ(長四尺二寸、親鸞の作、堂前を過る人、馬上或は、高展にて往来すれば、落馬顛伏するを以て、假面をかけしより、其患なかりしとなり、因て此名ありと云ふ、)
鐘樓。享保五年鑄造の鐘を掛く、
保命水。佛の供水に備んが爲親鸞の鑿ちし井と云ふ、
袈裟掛松。親鸞の袈裟を掛しなりとぞ、古樹今猶繁茂す、
支院榮覺寺。本尊彌陀、本坊二十世、釋宗慶の弟、宗圓開基す、貞享三年十二月十九日卒、(新編相模国風土記稿より)
「戸塚区郷土史」による永勝寺の縁起
竜臥山祥瑞院と号し、本尊は阿弥陀如来。当寺はもと天台宗にぞくしていたが、親鸞がたまたま関東化益され、国府津道場から鎌倉まで、大蔵経を書写するため七か年の間往返された時、住僧が親鸞に帰衣し、浄土真宗に改めたという。親鸞帰洛の後ち、覚信房真仏の孫誓海が住し、当初は長延寺と称した。従って、嘉禄二年の創建と伝え、誓海(正和五年五月二十八日寂)を開山と仰いでいるが、誓海は親鸞の高弟であり、関東六老僧の一人にかぞえられている。その後、武田信玄が当寺の僧を屈請して、甲州に長延寺という寺を建立したこともあったようであるが、北条対武田の戦いの際北条氏の圧迫をさけるため、永勝寺と改めたという。また一説に当寺は武田氏と俗縁関係にあったため、北条氏により堂宇は没却されたので、住僧は甲州に走り光沢寺という一寺を建立した。しかるに、その後旧地に帰り再興したとき、北条氏の聞こえをはばかるために永勝寺と改めたとも伝えている。(「戸塚区郷土史」より)
永勝寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿