清水山常玄寺。平成7年赤坂から当地へ移転
常玄寺の概要
顕本法華宗系単立寺院の常玄寺は、清水山と号します。常玄寺は、日夽上人が創建、正行院日遠上人(寛永12年寂)が開山したといいます。境内地が手狭となり、平成7年当地へ移転したといいます。
山号 | 清水山 |
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院号 | - |
寺号 | 常玄寺 |
住所 | 横浜市戸塚区舞岡町3492 |
宗派 | 顕本法華宗系単立 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
常玄寺の縁起
常玄寺は、日夽上人が元和2年(1616)に創建、正行院日遠上人(寛永12年寂)が開山したといいます(「四谷南寺町界隈」法恩寺項では元和3年1617年に日盛上人が開山とあります)。境内地が手狭となり、平成7年当地へ移転したといいます。
新編相模国風土記稿による常玄寺の縁起
江戸期は東京赤坂あったため掲載なし(新編相模国風土記稿より)
「戸塚区郷土史」による常玄寺の縁起
史料制作時東京赤坂にあったため掲載なし(「戸塚区郷土史」より)
「赤坂區史」による常玄寺の縁起
日蓮宗常玄寺(山號清水山淺草慶印寺末)一ツ木町四十一番地
元和三年の草創に係り、開山は正行院日遠上人(寛永十二年八月二十二日寂)である。江戸時代には境内御年貢地三百十二坪九合五勺、この寺地については、文政丁亥書上に、「但地處の儀は拙寺持地共市左衛門と申者屋舗にて有之、元禄十一虎年藍原休意と申者古金引換御請負仕御拝借之節、右屋舗證據に差上申候處、右御金上納相滞候に付、其屋舗翌十二卯年被召上町内え御預に相成、當時町人彌右衛門と申もの御請負仕居候」とある。
本堂の横に、中老瀧野の墓と云はれてゐる一基の墓石がある。「貞壽院殿蓮跡妙應日演大姉、寶暦癸未十三年初二日」と刻され、此墓の主は石州濱田城主松平周防守の奥勤女であつた中老瀧野即ち演劇「加々見山舊錦繪」の尾上であると云はれてゐる。しかし寺傳に據れば、恐らく尾上の下女お初(本名さつ、又山路)の墓であらうといふ。墓面に刻まれた歿年が事件の起つた享保九年より三十八年を經過してゐるのと、さつが其後も長年松平家の奥向に仕へ重く用ひられたといふ所傳(掲醍紀談)と照合すれば、或はさつの墓といふのが眞實に近いかと思はれる。
又狂歌師北斗庵一樹(姓は松下、名は善政、通稱覺之丞、後改めて一郎右衛門といふ。初代繪馬額輔の弟にして、兄とともに朱楽菅江の門に學び、山の手判者東西南北の一人となる。文政十年八月四日歿、年四十一。)の墓がある。(「赤坂區史」より)
常玄寺の周辺図
参考資料
- 「赤坂區史」
- 公式サイト:清水山 常玄寺
参考資料
- 新編相模国風土記稿