末吉愛宕神社|下末吉の鎮守
末吉愛宕神社の概要
末吉愛宕神社は、横浜市鶴見区下末吉にある神社です。末吉愛宕神社の創建年代は不詳ながら、江戸時代から末吉村に鎮座していた九社のうちの一社で、下末吉の鎮守だといいます。
社号 | 愛宕神社 |
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祭神 | 火軻遇突智命 |
相殿 | - |
境内社 | 富士浅間社 |
住所 | 横浜市鶴見区下末吉5-29-17 |
祭日 | 8月第1日曜日 |
備考 | - |
末吉愛宕神社の由緒
末吉愛宕神社の創建年代は不詳ながら、字深町に鎮座していたといいます。江戸期に洪水で流されてしまい、名主横山四郎兵衛が神明社地へ遷座、下末吉の鎮守としたといいます。
新編武蔵風土記稿による末吉愛宕神社の由緒
(下末吉村)
熊野三社
字別所にあり小名下の鎮守なり、石階二十六級を登り木の鳥居をたつ、社は宮作りにて上屋あり、本地彌陀長一尺観音長五寸薬師長五寸この三軀を安ず、何れも木の立像なり、勧請の年代詳ならず、例祭九月八日隔年にあり村内西光寺持。
神明社
字塚の手にあり、社は宮作にして上屋あり愛宕を合社とす、この愛宕もと字深町といふ所に鎮座して除地も既に十二歩あり、いつの頃か出水の爲にただよはされ、遂に此所に移して相社とせりと云。(新編武蔵風土記稿より)
神奈川県神社誌による末吉愛宕神社の由緒
当社は下末吉の鎮守として石階百四十段を登り愛宕の山頂に鎮座する。往古は俗称「土浮」除地十二歩の地に祀られていた。嘗て幕吏の苛斂誅求と打続く災害に堪えかねた農民の日や社頭に祈願を籠むるもの多かったが、神明感応して天災も絶え、五穀豊穣、幕吏も更迭し、稀に見る良吏を得て、一村漸く安堵するに至ったという。時の名主横山四郎兵衛、率先して盛大なる遷座祭を行い八月二十四日をもって年々祭典を厳修し、その年の豊凶に拘らず御神楽の奉奏を欠かさず今日に至っている。(神奈川県神社誌より)
末吉愛宕神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿