兜塚と兜塚伝説|鷲が太田道灌の兜を当地へ持ち去った伝説
兜塚と兜塚伝説の概要
兜塚と兜塚伝説は、横浜市鶴見区にある名所旧跡です。兜塚は、高さ5.8メートル、直径30メートルの古墳時代後期古墳跡地です。兜塚と呼ばれるようになった謂れについては、太田道灌が江戸城の支城を加瀬山に築こうとしたものの、鷲が道灌の兜を当地へ持ち去ったという悪夢に因んでものと伝えられ、加瀬山を夢見ヶ崎、当地を兜塚と称されるようなったといいます。
名称 | 兜塚・兜塚伝説 |
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みどころ | 史跡 |
入場時間 | - |
入場料 | - |
住所 | 横浜市鶴見区駒岡3丁目 |
備考 | - |
兜塚と兜塚伝説の由緒
兜塚は、高さ5.8メートル、直径30メートルの古墳時代後期古墳跡地です。兜塚と呼ばれるようになった謂れについては、太田道灌が江戸城の支城を加瀬山に築こうとしたものの、鷲が道灌の兜を当地へ持ち去ったという悪夢に因んでものと伝えられ、加瀬山を夢見ヶ崎、当地を兜塚と称されるようなったといいます。
横浜市教育委員会掲示による兜塚について
兜塚古墳跡は、外形が兜の形をした古墳で、高さ5.8メートル、直径30メートルあり、副葬品などから古墳時代後期(6世紀)頃のものといわれています。
昭和6年(1931)頃、長慶天皇(1368~1383)の陵墓だという説がおこり、県当局よりの指示で、石野 玦、山田 寅元、池谷 健治らが、発掘を試みたところ礫床を発見し、瑪瑙の勾玉・水晶の切子玉・青銅鍍金の金環など数点が発見されました。その後、昭和26年と40年にも調査をしています。(鶴見区役所掲示より)
横浜市教育委員会掲示による兜塚伝説について
長禄元年(1457)、太田道灌が江戸城を築き、江戸を中心とした支城を構築するため、各地をみて回った時、加瀬の台(川崎市幸区)にも城を築こうとして一夜を過ごしました。その夜、夢の中で、どっからともなく飛んできた鷲が、道灌の兜をさらって飛び去り、この丘の上に落として行きました。道灌はこれを不吉として加瀬の台に城を築くのをあきらめ、後にこの地を夢見ヶ崎と名づけました。鷲が兜を落とした丘に兜を埋めたので、兜塚といわれるようになったと伝えられています。(鶴見区役所掲示より)
新編武蔵風土記稿による兜塚と兜塚伝説について
(南加瀬村)
加瀬山
この山は南北加瀬兩村の境にあり、當村にかゝる所高さ八九丈、東より北へ長く、山上は平地にて幅一町許こゝより盗難には神奈川品川の海見えたり、眺望いろよろしき所なり、東方の山はづれを夢見ケ崎と云、其ゆゑんを尋るに昔太田道灌この地へ城を築んと思ひしに、或夜道灌己がかふとを鷲の来て抓み郡内駒岡村と云所へ飛去りしと夢見しかは、此事不吉なりとて其企をやめけりと、其跡を夢見ケ崎とは唱るよし土人は傳ふれども、外により所なし、(新編武蔵風土記稿より)
兜塚と兜塚伝説の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿