明王山真福寺。准秩父三十四観音霊場
真福寺の概要
天台宗寺院の真福寺は、明王山不動院と号します。真福寺の創建年代等は不詳ながら、当寺の不動尊は慈覚大師作で、慈覚大師が開基となり大同元年(807)に創建したのではないかともいいます。准秩父三十四観音霊場17番です。
山号 | 明王山 |
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院号 | 不動院 |
寺号 | 真福寺 |
住所 | 横浜市鶴見区上末吉1-15-10 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
真福寺の縁起
真福寺の創建年代等は不詳ながら、当寺の不動尊は慈覚大師作で、慈覚大師が開基となり大同元年(807)に創建したのではないかともいいます。
新編武蔵風土記稿による真福寺の縁起
(上末吉村)不動堂
小名根畑にあり、石階四十八級をのぼりてまた十五級をよちて仁王門にいたる、ここより又四十級をのぼりて堂前にいたる四間に五間、本尊長六尺なるを安ず。左右に矜羯羅勢多伽八大童子の木像あり共に長三尺餘、此本尊の胎中に慈覺大師の刻める像をこめをけりと相傳ふ、淳和天皇の御宇大同年中疫病大に行はれし時、祈念の爲大師勅を蒙り、山後の杉の木をもて自この像を彫刻して修行ありしと。按に此説虚妄なり、大同は平城天皇元年の年號にして淳和天皇の御宇は天長年中なり、況や年代をおすに大同元年は慈覺十三歳の時なれば、かかる勅をうくべきの理なしかたかたうけがたきことなり、されど後に記す所の不動松などありて土地の物ふりたる様、古き道場なることは疑なし。
鐘楼。堂に向ひて左の方にあり九尺四方、鐘の徑り二尺五寸銘文の末に寶暦三年二月と鐫であり。
不動塚。堂後の山上にある小高き塚なり、ここに不動松と云あり、圍み二丈餘、樹根より六七尺ばかり上にて二つに分れ、夫より左右の枝ひろこり其高さいくばくなるや計りがたし、いかにも年ふりたる大松なり、これは大師本尊を彫刻せんとて杉ノ木のありしをきり、其跡へ手づから植しよし、幹の中程にうろあり常に水たたへていかなる久旱にも渇することなく、眼を患るもの願をたてて洗ふこと怠らざれば、遂にいへざることなしと云、此所四方にささゆるものなく、南は神奈川品川の海つら眼下に臨、西は富士大山其餘の諸峰を遥に見渡されて殊に勝れし景地なり、海上往来の者此松をみとめて、通船の便とすと云。
仁王門。山の中腹にあり、三間に二間力士の二像長五尺ばかり、此門の左の方に行人の垢離する所あり石にたたみあ龍の口より落る水ありしが今はかれて出す。
別當眞福寺。天台宗にて荏原郡品川宿常行寺末明王山不動院と號す、開山開基詳ならず中興開山常性は近代の人なり、客殿六間に五間本尊十一面観音を安ず、行基菩薩の作なり、臺座後光ありすべていへば長三尺餘。(新編武蔵風土記稿より)
「横浜市史稿 佛寺編」による真福寺の縁起
眞福寺
位置
眞福寺は明王山不動院と號し、鶴見區上末吉町八百九十九番地に在る。
境内は一千四坪。官有地。東京府下品川町常行寺末、寺格は八等三級、準秩父三十三所觀音靈場の第十七番札所である。
沿革
當寺は貞觀年中、天台宗の第二祖慈覺大師の開基にかゝると云ふ。緣起には、是れより先、承和年中、大師入唐求法の時、彼國五臺山に於て明王の靈像を感得し、貞觀年中歸朝後、東國巡化の際、錫を此地に留め、一夜靈光の奇瑞を感じ、茲に一宇の草堂を建立し、親ら山上の大杉を以て不動明王の大像を彫み、曾て五臺山で感得した靈像を胎中に籠め、勸請して當寺の本尊としたとある。其後幾多の變遷等を經、寶暦の頃、住僧の常愍が今の堂宇を再興した。故に常愍を以て當寺中興の開山とする。其後、智靜法印の代、天保年中、堂内を修造、竝に莊嚴具等を整へた。中興以來、法、燈は十四世を數へて今日に及んで居る。
本尊
本尊は不動明王、木造立像、長七尺、慈覺大師の作と傳へる。(「横浜市史稿 佛寺編」より)
真福寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿