寒田神社。倭建命が東征に際して滞在、相模国十三座
寒田神社の概要
寒田神社は、足柄上郡松田町にある神社です。寒田神社の創建年代等は不詳ながら、倭建命東征に際して当地に滞在、御東征の成功を祈願して川に酒を流したところ、御帰還の折も尚酒香高く残っていたことから酒匂川と名づけられたと伝えられ、その創建は仁徳天皇3年(315)と伝えられます。延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている延喜式内社で、相模国十三座の一社です。源頼朝は年々玄米十石を奉献、江戸期には幕府より社領150石の御朱印状を寛永2年(1625)受領していました。明治維新後の社格制定に際し明治7年郷社に列格、大正2年天神社2社を合祀、昭和16年県社に昇格しています。当社祭礼では大名行列、七五三、奴ふりが奉納され、松田町民俗芸能文化財に指定されています。
社号 | 寒田神社 |
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祭神 | 倭建命、菅原道真公、弟橘比売命、誉田別命 |
相殿 | - |
境内社 | 寒田稲荷神社、祖霊社、熊野社、山神社、神明社、天神社 |
祭日 | 7月31日みそげ行事・大名行列 |
住所 | 足柄上郡松田町松田惣領1767 |
備考 | 相模国十三座、旧県社 |
寒田神社の由緒
寒田神社の創建年代等は不詳ながら、倭建命(日本武尊)東征に際して当地に滞在、御東征の成功を祈願して川に酒を流したところ、御帰還の折も尚酒香高く残っていたことから酒匂川と名づけられたと伝えられ、その創建は仁徳天皇3年(315)と伝えられます。延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている延喜式内社で、相模国十三座の一社です。源頼朝は年々玄米十石を奉献、江戸期には幕府より社領150石の御朱印状を寛永2年(1625)受領していました。明治維新後の社格制定に際し明治7年郷社に列格、大正2年天神社2社を合祀、昭和16年県社に昇格しています。
境内掲示による寒田神社の由緒
ご創建は仁徳天皇三年(西暦三一五年)と伝えられ平安時代には延喜式の神名帳に相模国の十三社の一つとして載っている古社です。
思うに一万年ぐらい前から堆積や地震による隆起により足柄平野が形成され開拓が進められてきた過程で人々の心の拠所としてこの地に建てられた神社であります。
源頼朝はしばしば立ち寄った松田亭より年々玄米十石を奉献し徳川家光も朱印地百五十石を寄進するなど尊崇されてきました。
時代はさがってアメリカの最初の宇宙飛行士ジョン・グレンさんも当社の祈祷神札を受けて無事成功され大願成就の参詣をされた。昭和十六年に県社になり昭和四十三年には神社庁より献幣使の参向する神社に指定されている。(境内掲示より)
神奈川県神社誌による寒田神社の由緒
創立は人皇第十六代仁徳天皇三年十一月(紀元九七五年)式内小社に列せられ、相模国十三社の一に位し神貢百束とある。建久四年(一一九三)源頼朝松田御亭より年年玄米十石社納の令旨あり、寛永二丙寅年(一六二五)徳川家光より百五十石の朱印を賜わる。文明四年(一四七二)弟橘比売命を合祀し、大正二年天神社二社を合祀、更に昭和三十六年四月八幡神社を合祀した。明治七年足柄県より郷社に列せられ、昭和十六年七月県社に列せらる。
当社は御祭神倭建命御東征の折暫く御滞在の史跡地として名高く、社前を流れる酒匂川は、御祭神が御東征の幸先を祈られて此の川に酒を流し給われたが、功成って御帰還の折も尚酒香高く残っていたので酒匂川と名づけたと伝えられる。当社の例祭をみそげ祭と云うのは、往古から六月三十日の御祓に相当するのでみそげ祭と云う。又御祭神が出雲出征の御時賊徒と結友(うるはしみ)給い、肥の川に沐されて打平げられたので、年々例祭日には酒匂川で神輿を沐して祭事を行う。大名行列、七五三、奴ふりは古来の神事として行われ、松田町指定無形文化財として重要なものである。(神奈川県神社誌より)
新編相模国風土記稿による寒田神社の由緒
(松田惣領)
神田明神社
【延喜式神名帳】に載する寒田神社是なり、
(曰、足柄上郡一座、小、寒田神社、按ずるに、寒田は、左無多の唱へなるを、いつの頃よりか、寒と音にて唱へなれしより、和訓神の音便と混じ訛りて、今の文字に書改めしと覺ゆ、)
【古風土記殘本】に、寒田神社、大鷦鷯天皇御宇三年亥十一月、所祭日本武尊、神貢百束とあり、今日本武・埴安媛二尊の像を安ず、例祭六月晦日、(護摩供を修行し、神楽を奏す、)當村及松田庶子、神山邑小名清水の鎮守なり、松田庶子大蔵院持、
△末社。神明、熊野、第六天
△神楽殿(新編相模国風土記稿より)
寒田神社所蔵の文化財
- 寒田神社(松田町指定文化財)
- 神宝の椀(松田町指定文化財)
- 松田町大名行列(松田町民俗芸能文化財)
寒田神社
西暦四〇〇年頃の古代に創建されたと言われる由緒のある神社で延長五年(九二七年)に国が作成した延喜式神名帳に、相模国十三座の内「足上郡一座小寒田の神社」と明記されています。
古代には、箱根越えの旅人が足柄道の通行の途中、この神社に旅の安全を祈願したと言われ、倭建命が東征の折に立寄られたと伝えられています。
祭神は倭建命、更に文明四年(一四七二年)に弟橘比売命を合祀、大正二年に天神社二社、昭和三十六年に庶子八幡社を合祀しています。(松田町教育委員会掲示より)
神宝の椀(松田町指定文化財)
この椀は、弥生時代後期の作と言われ、神社創建の頃から御神宝として保存されてきています。
材質は、けやきで塗りの跡はなく、高台が特に高くロクロ目が表面に輪なりにごつくて縄文のように見えます。
なお、全体の形はふっくらとして、量感に富んでいて、各庁の高い作品です。(松田町教育委員会掲示より)
松田町大名行列
松田町大名行列は、明治の初め、殿様の大名行列の形を寒田神社の祭礼行事の中に取り入れようと、大久保藩ゆかりの方にお願いして許可を得て、「奴振り」の師匠から伝授されたのが始まりと言われています。従って最初の頃は大名行列というよりは、祭りの行列の中へ「奴振り」を組み入れたものとして演じられ、親しまれてきました。
神社祭礼の日に神輿や天狗の行列の中に加わって町内を巡行していましたが、戦後になって町行政と分離することになり、昭和五十一年に「大名行列保存会」という組織で運営されることになりました。
本町の大名行列の特色は、寒田神社社誌にある祭礼行事の中の「赤坂奴」にあたる部分がその中心をなすもので、弓、先箱、毛槍、大鳥毛の道具を使用する「奴振り」と呼ばれるものです。
昭和五十二年に神奈川県民俗芸能五十選の一つにも選ばれました。また、毎年八月、町の観光まつりの目玉として町内を巡行し、その人気を集めています。(松田町教育委員会掲示より)
寒田神社の周辺図