文命西堤碑|足柄上郡山北町の名所旧跡
文命西堤碑の概要
文命西堤碑は、足柄上郡にある名所旧跡です。文命西堤碑は、享保11年(1726)に堤防の改修工事を行った田中丘隅が、堤防の寛政を記念して自身が建立した石碑です。田中丘隅は、完成した堤の上に中国の水神(禹王)を置いたことから、禹王の別称である「文命」堤と呼ばれています。文命堤は酒匂川の東側(班目)と対となっており、当地は西側にあたり岩流瀬堤とも呼ばれていました。
名称 | 文命西堤碑 |
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区分 | 史跡 |
入場時間 | - |
入場料 | - |
住所 | 足柄上郡山北町岸2130 |
備考 | - |
文命西堤碑の由緒
文命西堤碑は、享保11年(1726)に堤防の改修工事を行った田中丘隅が、堤防の寛政を記念して自身が建立した石碑です。田中丘隅は、完成した堤の上に中国の水神(禹王)を置いたことから、禹王の別称である「文命」堤と呼ばれています。文命堤は酒匂川の東側(班目)と対となっており、当地は西側にあたり岩流瀬堤とも呼ばれていました。
掲示による文命西堤碑について
酒匂川は、宝永四年(一七〇四)の富士山大噴火による降灰のため河床が埋まり、岩流瀬・大口付近は大水が出るびに堤防が決壊し、周辺の農民たちは甚大な被害を被った。
このため、荒川・多摩川の治水工事を手掛けた川崎宿名主田中丘隅は、幕府の命により享保十一年(一七二六)荒れ果てた酒匂川の改修工事の指揮にあたった。
丘隅は、弁慶枠や蛇籠に石をつめ、その一つ一つに僧侶が陀羅尼経を読んでから川岸に積み上げ、堤が完成するとその上に中国の水神である禹王の別称が文命であることから「文堤命」と言われ、川の東西で西堤(岩流瀬堤)と東堤(大口堤)と呼ばれている。
この堤等の完成により、酒匂川流域の村々は次第に復興していった。
この碑は、丘隅が文命西堤の完成を記念して建立したもので”享保十一年丙午夏五月二十五日 武蔵国川崎 田中丘隅立”と刻されている。また、文命堤の名については、東堤碑に詳しく記されている。(山北町教育委員会掲示より)
新編相模国風土記稿による文命西堤碑について
(川村岸)
文命堤
酒匂川にあり、舊は岩流瀬大口堤と云、享保十一年、酒匂川水防のため、田中丘隅右衛門が官命を奉じて築く所なり、(馬蹈十二間、敷二十五間、高二丈、)堤上に禹王の廟を建、故に文命と名づく、當村なるを西堤と號し、對岸班目村なるを東堤と號す、(事は班目村の條に詳なり、)其他二所に石堤を築く、一は字田淵、一は小名日向にあり、(高一尺、馬蹈五間、敷八間、)(新編相模国風土記稿より)
文命西堤碑の周辺図