長谷堰神社。用水の堰杭となった修験者を祀り創建
長谷堰神社の概要
長谷堰神社は、厚木市長谷にある神社です。長谷堰神社は、天正4年(1576)の旱魃に際して、北条家の家人武井四郎左エ門利忠が長谷川を堰上げしたものの効果を得られなかったところ、大山詣でを済ませた一人の修験者が堰杭(人柱)となり、用水が保たれたことから堰大明神と称して創建したといいます。
社号 | 堰神社 |
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祭神 | 水分神 |
相殿 | - |
境内社 | 八坂神社 |
祭日 | 例大祭4月15日 |
住所 | 厚木市長谷1611 |
備考 | - |
長谷堰神社の由緒
長谷堰神社は、天正4年(1576)の旱魃に際して、北条家の家人武井四郎左エ門利忠が長谷川を堰上げしたものの効果を得られなかったところ、大山詣でを済ませた一人の修験者が堰杭(人柱)となり、用水が保たれたことから堰大明神と称して創建したといいます。
新編相模国風土記稿による長谷堰神社の由緒
(長谷寺)
堰明神社
村の鎮守にて用水の守護神と云(相傳ふ、天正の頃旱魃の時、修験者来りて我を祀らば此地の用水を守らんと云、據て一社に祟しより今に其患なしと云、)神躰は束帶の像なり(長五寸、)山王天王稲荷を合祀す、例祭六月廿五日村持下同、
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御嶽社
堰明神社外の末社とす、(新編相模国風土記稿より)
神奈川県神社誌による長谷堰神社の由緒
天正四年(一五七六)の夏降雨更になく、水稲は枯渇してしまった。時の領主氏直公の家人武井四郎左エ門利忠は村民の愁眉を聞かせてやりたいと神に祈り村民を指揮して長谷川を堰上げ、あらゆる力を尽したが其の効がなく、その時六月二四日辰の上刻紅梅月毛の馬に身にからくれないの装束を着た一人の山伏が忽然として人々の間に現われて利忠に云った、吾は筑波の山に住む桂坊と申す者今大山に登山なさんとする者である。明二十五日辰の上刻大山より此処に帰って来るからと約束し大山に向って去った。翌日約束通り来て利忠に告げた。吾はこの堰杭になろう、そうすれば土俵で築いても水破することは決して無い。その代り此の川に杭と名のついて居るものはたとえ木枝でも後世決して打ってはならぬ。そして我霊魂は汝の家辺に遷して祭ってくれよ。然らば永く守護神となるであろう、と長谷川の清き水底に入って行方不明になってしまったと云う。それが為に新たに神社を建立し堰大明神と勧請し、山を桂敬山という。前の祭日は六月二十五日であった。(神奈川県神社誌より)
長谷堰神社の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 神奈川県神社誌