小野神社。厚木市小野の神社

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

小野神社。延喜式内社、愛甲三郎季隆崇敬、旧郷社

小野神社の概要

小野神社は、厚木市小野にある神社です。小野神社の創建年代等は不詳ながら、延喜式神名帳に「愛甲郡小一座小野神社」と記載される延喜式式内社で、小野妹子の子孫と伝えらる横山氏、その分家の愛甲氏は深く崇敬したといいます。徳川家康が関東入国した際には天正19年(1591)社領2石5斗の御朱印状を受領、小野村の鎮守社として崇敬を受け、明治6年には郷社に列格しています。

小野神社
小野神社の概要
社号 小野神社
祭神 下春命、日本武尊
相殿 -
境内社 春日神社、阿羅波婆神社、稲荷神社、日枝神社、淡嶋神社、古登比羅神社、八坂神社
祭日 例大祭4月21日
住所 厚木市小野428
備考 -



小野神社の由緒

小野神社の創建年代等は不詳ながら、延喜式神名帳に「「愛甲郡小一座小野神社」」される延喜式式内社で、小野妹子の子孫と伝えらる横山氏、その分家の愛甲氏は深く崇敬したといいます。徳川家康が関東入国した際には天正19年(1591)社領2石5斗の御朱印状を受領、小野村の鎮守社と崇敬を受け、明治6年には郷社に列格しています。

新編相模国風土記稿による小野神社の由緒

(小野村)
閑香明神社
村の鎮守なり、【延喜式】に載し小野神社(當國十三座の一、)にて祭神下春命と云神躰木像、本地薬師(長一尺七分行基作、)を安じ、阿羅婆婆枳春日の二座を相殿とす、天正十九年社領二石五斗の御朱印を賜ふ、例祭八月十二日、
末社。第六天、稲荷、淡島、金毘羅、山王
神楽殿
別當大鏡院。光玉山と號す、本山修験(小田原玉瀧坊配下、)本尊不動、始祖宗山(元禄年中卒、)(新編相模国風土記稿より)

神奈川県神社誌による小野神社の由緒

神名上に「愛甲郡小一座小野神社」とある。また新編相模風土記稿には閑香明神社として「村
の鎮守なり延喜式に載し小野神社(当国十三座の一)にて祭神下春命と云、神体木像本地薬師を安じ阿羅波婆枳春日の二座を相殿とす天正十九年(一五九一)社領二石五斗の御朱印を賜ふ例祭八月十二日別当大鏡院光玉山と号す、本山修験本尊不動始祖宗山(元禄年中卒)」と載せている。なお愛甲郡制誌では「建久五甲寅年(一一九四)八月愛甲三郎季隆と云ふ人が再興してから慶長二乙丑年(一五九七)十二月及び元禄五壬申年(一六九二)六月の二回工を改めた。越へて明治六年七月郷社に定められたのである。」「この神社は一般の崇敬殊に深く天正十九年(一五九一)徳川家康公の帰依による愛甲郡一円の総鎮守であった。殊に愛甲三郎季隆厚く崇敬してその子孫亦参詣度々に及んで居る」 としている。(神奈川県神社誌より)

「厚木市史史料」による小野神社の由緒

小野神社(小野七六八)
延喜式券九神名上に「愛甲郡小一座、小野神社」とある。また、新編相模風土記稿には閑香明神社
として、
「省略」
と載せている。なお、愛甲郡制誌では、
「建久五甲寅年八月、愛甲三郎季隆と云ふ人が再興してから、慶長二乙丑年十二月及び元禄五壬申年六月の二回工を改めた。越へて明治六年七月二十日郷社に定められたのである。」「この神社は一般の崇敬殊に深く、天正十九年徳川家康公の帰依により、愛甲郡一円の総鎮守であった。殊に愛甲三郎季隆厚く崇敬して、その子孫亦参詣度々に及んで居る。」としている。(「厚木市史史料」より)

境内掲示による小野神社の由緒

この神社は、延長五年(九二七)の「延喜式」巻九に「相模国式内社の内愛甲郡一座小野神社」と書かれています。
現在の拝殿は、嘉永元年(一、八四八)に建てられ、わら葺屋根でありましたが、昭和四十三年に鉄板葺に替えられました。本殿は拝殿よりも一メートルほど高い地面に神明造りで造られています。「新編相模国風土記稿」に「閑香明神社、村の鎮守なり。延喜式に載りし小野神社、当国十三社の一にて祭神下春命という」とあります。
明治時代になってから、この神社の祭神には日本武尊も加えられました。それは日本武尊が東国の賊の征伐に向かった際、野火の焼きうちの苦難にあうという「古事記」の記述の地が「小野」と関係するとして祭神に加えたもののようです。
この神社は、建久五年(一、一九四)愛甲三郎によって再興されたとも言われています。愛甲氏の本家の横山氏は、小野妹子の子孫と伝えられ、愛甲氏の家系の信仰は厚く、特に江戸時代には、愛甲姓の武将の参詣が記録されています。(厚木らしさの創造推進事業玉川地区協議会掲示より)


小野神社の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿
  • 神奈川県神社誌
  • 「厚木市史史料」