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妻田神社。厚木市妻田西の神社

妻田神社の概要

妻田神社は、厚木市妻田西にある神社です。妻田神社は、山城国宇治郡木幡神社(許波多神社)を勧請して元暦元年(1184)に創建、鮎川社柳大明神と称していたといいます。天正19年(1591)には徳川家康より社領1石5斗の御朱印状を受領、柳明神社と称していました。明治3年妻田神社と改称、明治6年村社に列格、昭和9年神饌幣帛料共進神社に指定されています。

妻田神社
妻田神社の概要
社号 妻田神社
祭神 天忍穂耳命
相殿 -
境内社 -
祭日 例大祭9月5日
住所 厚木市妻田西1-17-32
備考 -



妻田神社の由緒

妻田神社は、山城国宇治郡木幡神社(許波多神社)を勧請して元暦元年(1184)に創建、鮎川社柳大明神と称していたといいます。天正19年(1591)には徳川家康より社領1石5斗の御朱印状を受領、柳明神社と称していました。明治3年妻田神社と改称、明治6年村社に列格、昭和9年神饌幣帛料共進神社に指定されています。

新編相模国風土記稿による妻田神社の由緒

(妻田村)
柳明神社
村の鎮守、祭神詳ならず、本地佛大日、社領一石五斗の御朱印は天正十九年賜ふ、例祭九月二十九日、短刀(天國作、長一尺一寸許)一口を神寶とす、社前に鍾樓ありしが今廢す。
神楽殿
護摩堂。本尊不動。
別當教福院。田龍山東福寺と號す、當山修験江戸青山鳳閣寺配下、開山南蔵三浦氏と云、永禄十一年十月十七日卒。(新編相模国風土記稿より)

神奈川県神社誌による妻田神社の由緒

当社は旧時鮎川社柳大明神と称した。勧請は後鳥羽帝の御宇元暦元年(一一八四)山城国宇治郡木幡神社を分祭すと云い伝えられている。同六年十月社殿を再建、天正十九年(一五九一)朱印一石五斗を旧幕府より受領、明治三年妻田神社と改称、明治四年上地、明治六年七月三十日村社に列せらた。昭和九年八月三十一日神饌幣帛料共進神社に指定された。(神奈川県神社誌より)

「厚木市史史料」による妻田神社の由緒

妻田神社(妻田一九九一・一九九二)
後鳥羽天皇の御宇元暦元年山城国宇治郡木幡神社より分霊鎮座と相伝ふ。元禄六年十月社殿を再建、社殿と拝殿を元治元年七月五日半原大工愛治郎と上荻野大工磯右エ門で普請、拝殿は後れて慶応二年竣工。旧号鮎川神社柳大明神と相称す。天正十九年十一月徳川家康より杜領一石五斗の朱印あり。明治三年妻田神社と称す。四年上地となる。六年七月三十日村社に列せらる。時に大日を神格とし祭神天忍穂耳命。昭和九年八月三十日神饌幣帛料供進神社に列せらる(朱印地は境内が入らない)。以上は由緒書と文献とによるものである。現在の例祭九月五日(「厚木市史史料」より)


境内掲示による妻田神社の由緒

後鳥羽天皇の代に京都の許波多神社から分霊したと伝えている。
祭神は天忍穂耳命で地方には珍しく、旧号を鮎川神社と称え、本宮が柳山にあるので柳明神と改めた。更に明治の政令により妻田神社と称えている。
境内地は四百三坪、江戸時代には社領三十石所有地は一九一三坪であった。社殿、慶応二年(一八六八)に改築した。天正一九年(一五九五)の朱印状は珍しく県に保管してある。各所に在った小社もここへ移し別当教福院もこの際に廃寺となった。元の参道は教福院の南にあったので鳥居は移動している。(境内掲示より)

妻田神社の周辺図


参考資料
  • 新編相模国風土記稿
  • 神奈川県神社誌
  • 「厚木市史史料」