喜楽山長徳寺。厚木市上落合にある真宗大谷派寺院
長徳寺の概要
真宗大谷派寺院の長徳寺は、喜楽山と号します。長徳寺は、当初真言宗寺院として建立されていたものの、住僧西香が寛喜2年(1230)に親鸞上人に謁見して帰依、浄土真宗に改めたといいます。天正18年(1590)の小田原の役に際して、豊臣秀吉から制札を与えられた他、本願寺顕如上人の逝去に際して文禄2年(1594)分骨を与えられるなど、末寺11ヵ寺を擁する浄土真宗の著名寺院で、慶安2年(1649)には幕府より寺領13石の御朱印場を受領していました。
山号 | 喜楽山 |
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院号 | - |
寺号 | 長徳寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 厚木市上落合669 |
宗派 | 真宗大谷派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
長徳寺の縁起
長徳寺は、当初真言宗寺院として建立されていたものの、住僧西香が寛喜2年(1230)に親鸞上人に謁見して帰依、浄土真宗に改めたといいます。天正18年(1590)の小田原の役に際して、豊臣秀吉から制札を与えられた他、本願寺顕如上人の逝去に際して文禄2年(1594)分骨を与えられるなど、末寺11ヵ寺を擁する浄土真宗の著名寺院で、慶安2年(1649)には幕府より寺領13石の御朱印場を受領していました。
新編相模国風土記稿による長徳寺の縁起
(上落合村)
喜楽山と號す、一向宗(東本願寺末、)古は眞言宗なりしが、寛喜二年住僧西香親鸞に歸依して改宗す、故に西香(文永三年八月十六日卒、)を開基とせり、本尊阿彌陀(注釈を読む)
天正年中本山顯如大坂籠城の時(四年四月より八年七月に至る、)當國の坊主門徒等に用途の事を命ず、其文書に長延寺某書翰を添て當寺に寄す(注釈を読む)
十八年小田原陣の時、豊臣太閤制札(相模國大中郡落合郷、長徳寺と號す、)を與ふ、文禄二年正月、顯如の分骨を當寺に納む(注釈を読む)
寺領十三石の御朱印は慶安二年八月賜へり、(注釈を読む)
【寺寶】
十字名號一幅。親鸞筆開基西香へ授與
六字名號一幅。蓮如筆、
阿彌陀像一軀。長一尺二寸五分聖徳太子作、
聖徳太子像一軀。長二尺二寸、良辨作、三ノ宮村浄業寺より傳来すと云、
古文書九通。
鐘樓蹟。元禄十六年、地震に大鐘共破損して未再建せず、
塔頭萬徳寺。天和三年、寺號免許、本尊彌陀、(新編相模国風土記稿より)
厚木市史史料による長徳寺の縁起
喜楽山長徳寺(上落合669)
古は真言宗なりしが寛喜二年住僧西香、親鸞に帰依して改宗す。天正年中本山顕如大坂龍城の時当国の坊主門徒に用途の事を命ず。天正十八年小田原陣の時豊臣太閤境内制札相模国大中郡落合郷長徳寺と号す。文禄二年顕如の分骨を当時に納む。慶安二年八月寺領十三石の御朱印を賜う。古は相州武州の内に末寺が十一ケ寺あり、相模六ケ寺の中に数う。(以上新編相撲国風土記稿)(「厚木市史史料」より)
長徳寺所蔵の文化財
- 木造阿弥陀如来立像(厚木市指定有形文化財)
木造阿弥陀如来立像
本像は、長徳寺の本尊で、放射状光背を負って立つ浄土真宗の形式を持つ阿弥陀如来立像である。
寄木造で玉眼を嵌入し、肉身部を金泥、着衣部を漆箔とする。構造は、頭体幹部を前後に矧ぎ、胸部の衣の襟に沿って頭体部を割り矧ぐ。両手先、表面塗りなどは後補となっている。
像内の胸部裏及び体部背面の墨書銘によって、天文四年(一五三五)、後北条氏の家人藤田氏らの発願によって造立されたことがわかる。
まとまりのある衣文表現や整った面貌など、仏師のすぐれた技量が感じられ、衣の襟に沿って割り矧ぐ特徴のある構造とともに、鎌倉仏師の制作という伝承に相応しい作といえる。
全体にやや造形の形式化が進み、近世的な要素も濃い作例といえるが、制作時期の明らかな浄土真宗型の阿弥陀像の基準作例であり、資料的価値も高い貴重な仏像である。(厚木市教育委員会掲示より)
長徳寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 「厚木市史史料」