日本三体子合地蔵尊堂。旧子合山安産寺光善院
日本三体子合地蔵尊堂の概要
寺院の日本三体子合地蔵尊堂は、厚木市下荻野にある地蔵堂です。日本三体子合地蔵尊堂は、行基菩薩の御手になる日本三体同木同作の霊像の一つとされる地蔵菩薩像を奉安しています。地蔵尊の縁起については、八幡太郎源義家の六男森の冠者義隆が近江で戦死、その嫡男頼為が出家し浄慶法印(永仁元年1293年寂)と改め、荻野に子合山光善院を創建、一方毛利主計が森の冠者義隆の三十三回忌追善供養のため河内国壷井より地蔵尊を勧進、荻野に地蔵尊を奉安したものの霊験が強すぎることから、文明12年(1481)子合山光善院の境内に地蔵尊を移したといいます。光善院は大正年間ころまで住職がいたもののその後廃寺、現在は地蔵堂が護持されています。
山号 | - |
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院号 | - |
寺号 | 地蔵堂 |
本尊 | 地蔵菩薩像 |
住所 | 厚木市下荻野583 |
宗派 | |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
日本三体子合地蔵尊堂の縁起
日本三体子合地蔵尊堂は、行基菩薩の御手になる日本三体同木同作の霊像の一つとされる地蔵菩薩像を奉安しています。地蔵尊の縁起については、八幡太郎源義家の六男森の冠者義隆が近江で戦死、その嫡男頼為が出家し浄慶法印(永仁元年1293年寂)と改め、荻野に子合山光善院を創建、一方毛利主計が森の冠者義隆の三十三回忌追善供養のため河内国壷井より地蔵尊を勧進、荻野に地蔵尊を奉安したものの霊験が強すぎることから、文明12年(1481)子合山光善院の境内に地蔵尊を移したといいます。光善院は大正年間ころまで住職がいたもののその後廃寺、現在は地蔵堂が護持されています。
境内掲示による日本三体子合地蔵尊堂の縁起
当山に安置せられたる地蔵尊は、八幡太郎・源義家河内国丹南郡壷井に居城していた頃多くの男子が誕生した中で、六男森の冠者義隆公は、康和三年(一一〇六)辛巳生まれのため巳年、卯年の縁起地蔵薩埵を崇敬していたところ保元・平治の乱に甥の源義朝の要請により参戦したが、源氏の武運は傾き東国へ敗走の途中近江の竜華越えにて戦死してしまいました。
義隆公の嫡男頼為は五歳にして聖護院の御弟子として仏門に入り名を増珍と改め成長ののち浄慶法印と改号し春秋三十五歳にて亡父終焉の地を慕い相模の国荻野を尋ね至り閑居し子合山光善院を開基しました。
その当時森姓の与党に毛利主計なるものあり義隆公三十三回忌追善のため河内国壷井に至り縁仏である地蔵尊を勧進しはじめ当村在家に尊体を留め置いた。この地蔵尊は霊験の深甚なること舌頭に述べがたく崇敬をおざなりにして御罰に当たるものが多く住民はおそれて元祖禎曽法印に上納し、文明十二年(一四八一)八月十六日光善院の境内に草堂を建立し代々崇敬してきました。
この地蔵尊は行基菩薩の御手になる日本三体同木同作の霊像にして威徳いよいよ顕れ日々新たに代業苦のお恵み著しく専ら妊婦の難産に代わり給まう。これに因みこの地は子合という地名となりました。
以来近隣の人々の信仰をあつめ子育地蔵尊として現在は子合山安産寺に安置し毎年縁日である八月十六日お開帳の式典に合わせて盛大に祭典を開催しています。
尚この日本三体地蔵尊の一対は河内国(大阪府)丹南郡壷井に他の一体は岩代国(福島県)帯解村子合に安置せらるといわれています。(子中自治会・日本三体子合地蔵尊保存会掲示より)
新編相模国風土記稿による日本三体子合地蔵尊堂の縁起
(下荻野村)
小名
子合村。古は小合に作る、按ずるに古澤村本照寺に掛し、永禄九年の鰐口に小合大工清次と彫れり、又昔此所に毛利松と呼古木二株ありしに、享保中枯たりしを天明の頃其根を掘取し時、兜の鉢三を得て、今に村民家蔵す、
新宿。市場にて長三町六間、天文の頃小合・公所兩所の民、爰に移りしより新宿と呼ぶ、此内に又原村と云小名あり、
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光善院
子合山安産寺と號す(同配下、[小田原玉瀧坊配下])本尊不動、開基浄慶(元仁元年九月七日卒、)
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地蔵堂
享保二年再建の棟札に、本尊行基作(座像長一尺五分、)にて、昔河内國丹南郡より當村毛利氏の家に移す、其靈驗ありしかば俗家に置を恐れ、光善院の僧貞祖(文龜三年二月卒、)に譲て、此堂を建立せし由を載す、同院の持、(新編相模国風土記稿より)
厚木市史史料による日本三体子合地蔵尊堂の縁起
子合山光善院安産寺(跡下荻野子合)
宗派本山修験(小田原玉瀧坊配下)
新編相模風土記「本尊不動、開基浄慶元仁元年九月七日卒」千葉賢秀 慶応三年十一月七日住職となり、大正年中初期まで所在、廃寺となる。(「厚木市史史料」より)
日本三体子合地蔵尊堂の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 「厚木市史史料」