満星山戒善寺。伝源頼朝公持仏の釈迦如来像
戒善寺の概要
日蓮宗寺院の戒善寺は、満星山と号します。戒善寺の創建年代等は不詳ながら、平安時代に天台宗寺院として創建したと伝えられ、治承四年(1180)日蓮上人が佐渡流罪となった際、依知郷に28日ほど滞在、その折に天台宗から日蓮宗へ改めたといいます。当寺の釈迦如来像は、源頼朝公の持仏と伝えられ、また日蓮上人が開眼したと伝えられることから、慶安2年(1649)には江戸幕府より釈迦堂領として5石の御朱印状を受領していました。
山号 | 満星山 |
---|---|
院号 | - |
寺号 | 戒善寺 |
本尊 | 三寶諸尊像 |
住所 | 厚木市中荻野748 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
戒善寺の縁起
戒善寺の創建年代等は不詳ながら、平安時代に天台宗寺院として創建したと伝えられ、治承四年(1180)日蓮上人が佐渡流罪となった際、依知郷に28日ほど滞在、その折に天台宗から日蓮宗へ改めたといいます。当寺の釈迦如来像は、源頼朝公の持仏と伝えられ、また日蓮上人が開眼したと伝えられることから、慶安2年(1649)には江戸幕府より釈迦堂領として5石の御朱印状を受領していました。
境内掲示による戒善寺の縁起
戒善寺は平安時代に天台宗の寺として草創された。寺名は「悪を戒め、善を薦む」による。
大同二年(八〇二年)山門前の荻野古道を弘法大師が歩かれている。
治承四年(一一八〇年)源頼朝公が挙兵し、古道を開発され源氏河原には家臣が駐屯していた。近くの戒善寺には頼朝公持仏の「釈迦如来立像」が安置された。
文永八年(一二七一年)日蓮大上人が佐渡流罪となり、二十八日間依智郷(厚木)に滞在された折に「釈迦如来立像」を開眼され、天台宗から日蓮宗に改宗した。
天正十八年(一五九〇年)関東入りした徳川家康公が、」慶長八年(一六〇三年)検地で山門前の荻野古道を通っている。その折に釈迦堂領五石を賜わっている。
明治になり自由民権運動が起り、国会開設憲法制定・地租軽減・条約改正・地方自治の確保の五大要求を掲げ国民の自由と人権を確保し、近代民主主義を打ち立てようとする運動であった。
荻野には著名な講師が招かれ明治十六年七月に板垣退助公が柤家の柳田富三宅に泊っている。
荻野では、公立山中学校の学務委員の森甚太郎教師に教師に佐伯十三郎・大矢正夫・加藤政福・柳田富三・松井日明(戒善寺五十三世)らの青年民権家がいた。戒善寺には民権家七人の墓所がある。(境内掲示より)
厚木市史史料による戒善寺の縁起
満星山戒善寺(中荻野字本郷下748)
当寺は、日蓮宗中山派で、下総国葛飾郡中山村の法華経寺の末寺である。慶安二年幕府より、境内の釈迦堂に五石の朱印地を賜った。(愛甲郡制誌)
現住職伴野泰敬氏の話によれば「古く当寺は天台宗であり、釈迦堂は源頼朝の持物であったと言われ、そのため特に釈迦堂に対し、朱印地を賜ったという。なお日蓮が依知村滞在中、当寺に立ちより、時の住職日源と思想相通じ、日源は天台宗を改め、日蓮宗となし、自ら開基となって戒善寺を正和四年に創建した。」と。(伝承)(「厚木市史史料」より)
新編相模国風土記稿による戒善寺の縁起
(中荻野村)
戒善寺(慶安二年寺領五石の御朱印)
満星山と號す法華宗(下總國中山法華經寺末、)本尊三寶諸尊、弘安五年二月十六日草創す、開山日源(中老僧の一、正和四年九月十三日卒、)慶安二年境内釋迦堂領五石の御朱印を賜ふ、
釋迦堂。本堂に續てあり、
三十番神堂
鐘樓。明和五年鑄造の鐘を掛く、(新編相模国風土記稿より)
戒善寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 「厚木市史史料」