白根山遍照院。妻田薬師、伝承良辨僧正感得の薬師
遍照院の概要
高野山真言宗寺院の遍照院は、白根山と号します。遍照院の創建年代等は不詳ながら、妻田薬師堂は、奈良東大寺や・大山寺などを開山した良辨僧正が天平宝字5年(761)がで奇瑞を得た堂だと伝えられます。永禄12年(1569)武田信玄の小田原攻めに際して焼失、天正12年(1584)に再建、別当寺としての遍照院は秀祐(寛永11年1634年卒)が中興しています。薬師堂、厨子、薬師如来坐像、日光・月光菩薩立像、十二神将立像は厚木市文化財に指定されています。
山号 | 白根山 |
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院号 | - |
寺号 | 遍照院 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 厚木市妻田西3-17-32 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
遍照院の縁起
遍照院の創建年代等は不詳ながら、妻田薬師堂は、奈良東大寺や・大山寺などを開山した良辨僧正が天平宝字5年(761)がで奇瑞を得た堂だと伝えられます。永禄12年(1569)武田信玄の小田原攻めに際して焼失、天正12年(1584)に再建、別当寺としての遍照院は秀祐(寛永11年1634年卒)が中興しています。
新編相模国風土記稿による遍照院の縁起
(妻田村)薬師堂
本尊木佛座像丈一尺三寸聖徳太子作、左右に日光月光を安ず、各丈二尺、共に運慶作、天正十九年堂領一石五斗の御朱印を賜ふ、寶永三年に記せし縁起に天平寶字五年良辨此堂に通夜して奇瑞を得、永禄十二年甲軍の爲に堂宇兵火に罹りしを天正七年に至り、武州の住人長野井豫助と云もの再建を企て、十二年に至て落成せし見ゆれど龕中に天正十二年五月吉日、長野伊豫助林郷に生ると記すれば年代合ず、且林は當郡林村なるべし武州の人と云も齟齬せり、
鍾樓。寛永十年の鐘を懸
天神社
秋葉社
辨天社。清水辨天と號す、
楠樹。圍三丈七尺、
別當遍照院。白根山東光寺と號す、真言宗古義高座郡河原口村惣持院末、中興秀祐寛永十一年十二月廿六日卒、弘法大師の像を置。(新編相模国風土記稿より)
厚木市史史料による遍照院の縁起
白根山遍照院東光寺(妻田653)
現在、妻田の薬師と称している薬師堂の所在する処で、新編相模国風土記稿の記事には薬師堂の別当として遍照院がある。
(新編相模国風土記稿とほぼ同文箇所省略)(「厚木市史史料」より)
遍照院所蔵の文化財
- 銅鐘(厚木市指定重要文化財)
- 薬師堂、厨子、薬師如来坐像(厚木市指定重要文化財)
- 日光・月光菩薩立像(厚木市指定重要文化財)
- 十二神将立像(厚木市指定重要文化財)
- 妻田の楠(県指定天然記念物)
銅鐘
妻田薬師の銅鐘は、江戸時代前期寛永10年(1633)に鋳造され、当時からその鐘の音は地域の皆さまに親しまれてきました。関東大震災や第二次世界大戦をくぐりぬけ、平成の時代にまでにいたりました。しかし、平成12年に、銅鐘にひびが入っていることがわかり、新世紀を迎えるにあたり、厚木市妻田薬師保存会や多くの方の御尽力により、新たに鋳造することになりました。地域で親しまれてきた歴史のある銅鐘をどのように保存するか検討し、21世紀になっても、その音は響かないものの、今まで通り多くの方に親しんでいただくように、この場所に保存することになったものです。(厚木市教育委員会掲示より)
薬師堂、厨子、薬師如来坐像、日光・月光菩薩立像、十二神将立像
現在の薬師堂は、昭和四十六年に屋根替えをした際に発見された資料から、宝暦八年(一七五八)に再建されたことが分かりますが、厨子周りの柱は、天正十二年(一五八四)再建当時のものが用いられています。それ以前の建物は「新編相模国風土記稿」によれば、永禄十二年(一五六九)武田氏と北條氏の戦火により焼失したと記されています。
堂内には本尊の薬師如来坐像を始め、日光・月光菩薩立像、十二神将立像などの仏像が収められています。本尊を安置してある厨子は、内部の銘によれば天正元年(一五七三)に製作され、天正十二年に寄進されたものです。これらは、いずれも市指定重要文化財に指定されています。
銅鐘は、荻野の鋳物師によって鋳造された江戸時代初期のものです。鐘銘に「寛永拾天歳次九月十三日相州荻野郷大工木村河内守守吉久」と刻まれています。(厚木市教育委員会掲示より)
遍照院の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 「厚木市史史料」