神崎遺跡|東海地方から移住した人々が築いた環濠集落
神崎遺跡の概要
神崎遺跡は、海老名市にある名所旧跡です。神崎遺跡は、弥生時代後期(紀元200年頃)の環濠集落跡で、東海地方(浜松・豊橋付近)の人々が集団で当地に移住して築いた集落です。集落は、南北103m、東西5mで、幅・深さ2mの環濠を巡らしており、現時点で18軒の竪穴住居跡が確認されています。竪穴式住居の型や出土土器から、東海地方からの移住が特定されたこと等から、国史跡に指定されています。なお、弥生時代後期(紀元200年頃)は、日本国内では邪馬台国の卑弥呼が統治していた頃で、中国では魏呉蜀が争った三国時代に該当、戦乱の中での人々の移動が激しかった時代です。
名称 | 神崎遺跡 |
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区分 | 国指定史跡 |
入場時間 | - |
入場料 | - |
住所 | 綾瀬市吉岡3425-5 |
備考 | - |
神崎遺跡の由緒
神崎遺跡は、弥生時代後期(紀元200年頃)の環濠集落跡で、東海地方(浜松・豊橋付近)の人々が集団で当地に移住して築いた集落です。集落は、南北103m、東西5mで、幅・深さ2mの環濠を巡らしており、現時点で18軒の竪穴住居跡が確認されています。竪穴式住居の型や出土土器から、東海地方からの移住が特定されたこと等から、国史跡に指定されています。なお、弥生時代後期(紀元200年頃)は、日本国内では邪馬台国の卑弥呼が統治していた頃で、中国では魏呉蜀が争った三国時代に該当、戦乱の中での人々の移動が激しかった時代です。
境内掲示による神崎遺跡について
国指定史跡神崎遺跡
指定理由
国家の成立にむけて日本列島が揺れ動く弥生時代に、東海地方から関東地方へ200km以上を人々が集団移住したことを示す遺跡であること、及び、環濠集落全体がほぼ完全な形で残っていること。
遺跡の内容
弥生時代後期(約1,800年前)の環濠集落。集落の形は楕円形で、規模は南北103m、東西65m、面積は約5.000㎡。環濠(周囲を巡る溝)は、幅、深さともに約2mで、断面はV字形。これまで実施した発掘調査は遺跡の一部で、確認できた弥生時代の竪穴住居跡は18軒。
その他
史跡の隣接地に神崎遺跡資料館が平成28年5月に開館。館内には出土遺物や環濠の復元模型が展示されているほか、2階からは環濠集落を一望できる。(境内掲示より)
境内掲示に神崎遺跡の特徴について
移住者のムラ
今から1,800年前、前方に見える東海道新幹線の向かって右方向200km先(駅名でいうと浜松、豊橋あたり、現在の愛知県から静岡県にかけての地域)に住んでいた人々が、集団でここに移住し、環濠集落と呼ばれるムラをつくったことが発掘調査により明らかになりました。
発掘調査により土器等モノの移動が明らかになることはよくありますが、人の移住を証明できることはほとんどありません。
神崎遺跡は出土した土器の95%以上が東海地方の土器に酷似していること、しかも、その土器は神崎遺跡周辺の土でつくられていたこと、さらには、竪穴住居の形も「横長型」という地元のものではなかったことから、日本列島内での集団移住が明らかになりました。(境内掲示より)
神崎遺跡の周辺図