海源寺。海老名市中新田にある日蓮宗寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

長高山海源寺。海老名広治の甥大島豊後守正時が開基

海源寺の概要

日蓮宗寺院の海源寺は、長高山と号します。海源寺は、海老名広治が田邑宗友と領土争いをしていた際、甥の大島豊後守正時に助太刀を依頼、房州より移り住んだ大島豊後守正時は、子のいなかった海老名広治の死後、当地の領主となった大島豊後守正時が長禄・寛正年間(1457-1466)に当寺を創建、身延山11世日朝(明応9年1500年寂)が開山したといいます。慶安2年(1649)には江戸幕府より寺領9石の御朱印状を受領していました。

海源寺
海源寺の概要
山号 長高山
院号 -
寺号 海源寺
本尊 阿弥陀如来像
住所 海老名市中新田1-1-22
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



海源寺の縁起

海源寺は、海老名広治が田邑宗友と領土争いをしていた際、甥の大島豊後守正時に助太刀を依頼、房州より移り住んだ大島豊後守正時は、子のいなかった海老名広治の死後、当地の領主となった大島豊後守正時が長禄・寛正年間(1457-1466)に当寺を創建、身延山11世日朝(明応9年1500年寂)が開山したといいます。大島豊後守正時の子孫は、その後代々里正を勤め、当寺の鐘楼門は第十一代正晴からの銅鐘寄進が契機となり建立されたものです。慶安2年(1649)には江戸幕府より寺領9石の御朱印状を受領していました。

新編相模国風土記稿による海源寺の縁

(中新田村)
海源寺
長高山と號す、日蓮宗(身延久遠寺末)本尊三寶諸尊及宗祖木像(日蓮作、長七寸二分)を安ず、寛正年間の起立にして開山日朝(明應九年六月二十五日卒、身延山第十一世の僧則木像を本堂に安ず、)開基は大島豊後正時なり(傳は舊家の條に出す、永正二年六月二十四日卒す、法名蓮舜、肖像を置、圖左に出せり、)慶安二年八月寺領九石の御朱印を賜ふ、又地頭より寄附の地あり、
【寺寶】
日蓮筆跡一幅、
十界曼荼羅一幅(日朝筆、)
鐘樓。鐘は元文二年の鑄造なり、
鬼子母神堂。三十番神堂
七面堂。(新編相模国風土記稿より)


海源寺所蔵の文化財

  • 海源寺鐘楼門(海老名市指定重要文化財)
  • 大島豊後守正時像(海老名市指定重要文化財)

海源寺鐘楼門

この鐘楼門は、記録によると大島家第十一代正晴が大願主となって、元文二年(一七三七)に寺に銅鐘を寄進し、その後すぐに築造されました。関東大震災による倒壊などで改築・修理を余儀なくされましたが、旧部材を用いたこともあって、創建当時の特徴を残しています。
建物の概要は、桁行二二尺(約六メートル六〇センチ)、梁間一二尺(約三メートル六〇センチ)の三間鐘楼門で、屋根は入母屋造り、銅板瓦棒葺です。軸部や斗栱などに欅材を多用し、上層の台輪以上が新材に替えられましたが、他は当初の部材をよく残しています。軸部と斗栱に禅宗様の技法を用いていますが、細部装飾は少なく、意匠は簡素です。外観は、上層軸部の丈が高く、軽快です。海老名市内における近世社寺建築の代表的な遺構です。(海老名市教育委員会掲示より)

大島豊後守正時像

室町時代、当市は海老名広治の領地でしたが、隣りの田邑の領主田邑宗友と領域争いをしたとき、房州(千葉県の一部)にいた甥の正時に応援を頼み、これに助けられました。
広治の病死後、正時は後継のなかった広治のあとを継いでこの地を治め、長禄の頃(十五世紀中頃)海源寺を建てました。
正時が死んで当寺に葬られた永正二(一五〇五)年、この木像が置かれたと思われますが、江戸時代に罹災し、現存する座像は宝永七(一七一〇)年につくり直されたもののようです。
なお、本市に実在した武将の像としては唯一のもので、この意味において大変貴重と考えられます。(海老名市教育委員会掲示より)

海源寺の周辺図