江島神社。藤沢市江の島の神社

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

江島神社。源頼朝を始め歴代領主崇敬、日本三弁天、旧県社

江島神社の概要

江島神社は、藤沢市江の島にある神社です。江島神社は、神勅により欽明天皇13年(552)に創建した伝えられ、源頼朝が祈願のため文覚上人をして御窟に大弁才天を勧請したともいいます。歴代武家の崇敬を集め、歴代北条氏、太田道灌、後北条氏も崇敬、慶長5年(1600)には徳川家康が御窟に入って祈願しています。当社の弁財天は、厳島神社、竹生島と共に日本三弁天とも称されて崇敬を集めています。明治維新後の社格制定に際して明治18年県社に列格しています。

江島神社
江島神社の概要
社号 江島神社
祭神 奥津宮:多紀理毘売命、中津宮:市杵島姫命、辺津宮:田寸津比売命
相殿 御窟:天照皇大神、須佐之男命、、宗像三女神
境内社 八坂神社、秋葉稲荷社
祭日 -
住所 藤沢市江の島2-3-8
備考 -



江島神社の由緒

江島神社は、神勅により欽明天皇13年(552)に創建した伝えられ、源頼朝が祈願のため文覚上人をして御窟に大弁才天を勧請したともいいます。歴代武家の崇敬を集め、歴代北条氏、太田道灌、後北条氏も崇敬、慶長5年(1600)には徳川家康が御窟に入って祈願しています。当社の弁財天は、厳島神社、竹生島と共に日本三弁天とも称されて崇敬を集めています。明治維新後の社格制定に際して明治18年県社に列格しています。

新編相模国風土記稿による江島神社の由緒

一冊全てが江島神社の紹介なので省略(新編相模国風土記稿より)

神奈川県神社誌による江島神社の由緒

当社の濫觴は『江島譜』によれば、「欽明天皇の御宇、神勅により帝詔して宮を島南の渚の龍穴に立てられ、一歳二度の祭祀この時に始まる」とあり、『江島縁起』には欽明天皇十三年(五五二)四月の創祀とある。又、『吾妻鏡』寿永元年(一一八二)四月五日の条には、源頼朝が祈願のために文覚上人をして御窟に大弁才天を勧請したという記事が見えるなど諸説がある。
社伝によれば、北条時政が子孫繁栄祈願のため御窟に参篭した際、霊験があり龍鱗三枚を感得し、のちに家紋(三つ鱗)として大いに尊崇するところがあったという。
爾後、鎌倉将軍及び北条氏等の崇敬篤かった事などが『吾妻鏡』に見える。降って康正二年(一四五六)には太田道灌が社参し、更には後北条氏の崇敬もあり、社殿造営などに力を尽した事などが記録にある。慶長五年(一六〇〇)六月、徳川家康は御窟に入って祈願をし、以来江戸幕府の崇敬篤く、宝永三年(一七〇六)十月、本宮に十五石、同じく上之宮へ十石、元禄五年(一六九二)、下之宮へ十石八斗余の寄進があった。
御祭神の三女神は海運、漁業、交通の守護神とされ、古くは江島明神と呼ばれていたが、その後仏教との習合によって江島弁天として信仰されるに及び、海の神、水の神のほかに幸福、財宝を招き、技芸上達の功徳を持つ神と仰がれ、厳島、竹生島と並んで日本三弁天と称せられ世に広まった。
別当寺としては、岩本院、上之坊、下之坊があり、特に岩本院は本宮を預かり、一山の総別当として金亀山与願寺江島寺とも称し、江戸時代には下之坊と共に江島詣隆盛の因を作った。
古くは御窟を本宮といい、四月上巳には神輿が山上のお旅所に渡御され、十月上亥に御窟に還御という一年二度の神事が続けられていた。後にはそのお旅所を本宮と称するようになり、社殿は壮麗を極めたが天保十二年(一八四二)焼失した。翌十三年再建されたのが今の奥津宮社殿である。又、中津宮は上之官といわれ仁寿三年(八五三)の創建で、元禄年間(一六八八-一七〇四)に改築、昭和五十五年改修された。辺津宮は下之宮と称され、建永元年(一二〇六)源実朝の創建によるもので、延宝三年(一六七五)に再建されたと伝えられる。
明治初年の神仏分離により、仏教的要素は全く排除され、江島神社と総称し純粋の神社信仰に復したが、江島弁天としての信仰は今でも根強く残っている。明治十八年県社に列格。昭和五十一年に辺津宮社殿及び社務所の改修を竣えて現在に至っている。神社本庁別表神社。(神奈川県神社誌より)


江島神社の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿
  • 神奈川県神社誌
  • 「藤沢市史史料」