龍口山本蓮寺。龍口寺輪番八ヶ寺、推古天皇3年創建
本蓮寺の概要
日蓮宗寺院の本蓮寺は、龍口山と号します。本蓮寺は、聖徳太子の師高麗恵慈の弟子義玄が推古天皇3年(595)に長塚山三論寺と称して創建、元暦元(1184)年に源頼朝公が七堂伽藍を再建したことから源立寿寺と改称したといいます。嘉元2(1304)中老僧日秀の教化により日蓮宗に改め本蓮寺と改称、龍口寺輪番八ヶ寺の一寺でした。江戸期には幕府より寺領7石の御朱印状を慶安2年(1649)に受領してます。
山号 | 龍口山 |
---|---|
院号 | - |
寺号 | 本蓮寺 |
住所 | 藤沢市片瀬3-4-41 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
本蓮寺の縁起
本蓮寺は、聖徳太子の師高麗恵慈の弟子義玄が推古天皇3年(595)に長塚山三論寺と称して創建、元暦元(1184)年に源頼朝公が七堂伽藍を再建したことから源立寿寺と改称したといいます。嘉元2(1304)中老僧日秀の教化により日蓮宗に改め本蓮寺と改称、龍口寺輪番八ヶ寺の一寺でした。江戸期には幕府より寺領7石の御朱印状を慶安2年(1649)に受領してます。
新編相模国風土記稿による本蓮寺の縁起
(片瀬村)
本蓮寺
龍口山と號す(京本國寺末、)寺記に據るに推古帝の三年義玄(高麗惠慈の弟子、)創建し後泰澄・弘法・慈覺等の高僧居住す、元暦中賴朝再建せしとなり、當時密宗たりしが文永八年九月十二日、日蓮止宿ありし舊跡なるをもて嘉元中日秀(中老僧)改宗して再建せしとぞ、因て秀を中興とす、本尊三寶諸尊及宗祖の木像二軀を安ず(市は中老日法作、臺座を合て長二尺三寸、一は日像作、臺座を合て、長一尺六寸子安日蓮と稱す)慶安二年八月寺領七石の御朱印を賜へり、
【寺寶】
△赦免状一通(御下知之趣、於守殿御館、大物恠共有之日蓮法師不可誅之由、以南條七郎、被仰出所如件、九月十二日、平左衛門尉殿、信濃判官入道觀正、在判、按ずるに、平左衛門尉は執権北條氏の内管領、賴綱なるべし、)是日蓮龍口の厄に鎌倉より下せる免状とて藁刻して世に傳ふるものなり、
△御天目臺
△御茶入箱。此二品は慶長の頃、東照宮此邊渡御ありし時、御休憩あり、御茶を召上られし器と云ふ、其圖左の如し、
△七面堂。三十番神をも置く、
△鐘樓。寛永十年の鐘をかく、
△稲荷社
△支院。佛乗院・圓頓坊・本光坊(今皆廢す)
△長者塚。津村の長者の墳と云ふ【江島縁起】に武烈天皇の御宇五頭龍湖水の南山谷・津村の湊に出て人兒を噉ふ云々、谷前に長者あり、子十六人を産り毒龍の爲に呑れ、悲嘆懊悩して舊宅を離れ西里に移る是を長者塚と云ふ云々と記し、寶暦中の刊本【江島大雙紙】にも長者塚の形を存す彼長者が子を埋めし所と云ふと記せり、
△兒櫻。長者の兒十六人の墳なりと傳ふ、又子安櫻とも呼ぶ(子安祖師よりの名)なりと云ふ、(新編相模国風土記稿より)
「日蓮宗寺院大鑑」による本蓮寺の縁起
推古天皇御代(~593)の創立。開基義玄。潮師法縁。聖徳太子の師高麗恵慈の弟子義玄により開かれ、長塚山三論寺と称し、元暦元(1184)年源頼朝公により七堂伽藍を再建。文治元(1185)年に御堂供養式が行われ、頼朝公再建に因んで寺号を源立寿寺と改称した。嘉元2(1304)中に中老僧日秀の教化により改宗、寺号を本蓮寺と改称。安産守護の祖師を安置、子安霊場として信仰された。元弘3年、新田義貞の鎌倉攻めにより諸堂と寺寶を全焼。その後本堂・七面堂・鐘楼・稲荷堂等、また仏乗院・円頓坊・本光坊等の塔頭が再建され、慶安2年に徳川幕府より御朱印を賜り御朱印寺と称した。(「日蓮宗寺院大鑑」より)
本蓮寺所蔵の文化財
- 伝元使塚
伝元使塚
五輪塔は、密教がいう万物の構成要素の地水火風空をそれぞれ方、円、三角、半月、宝珠の形で重ねて表したもので、平安後期に出現し鎌倉時代以降に供養塔や墓標として全国的に流行しました。この五輪塔は、文明の役(一二七四)の翌年の建治元年に元より降伏勧告に使わされ、鎌倉幕府の執権北条時宗の命によって龍の口(片瀬川から腰越あたり)で斬首された杜世忠ら五人の元使の供養塔と伝えられています。その後、元は再度日本を襲撃(弘安の役、一二八一)しましたが、前回同様に台風で多くの船・兵を失い退散しました。(藤沢市教育委員会掲示より)
本蓮寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 「日蓮宗寺院大鑑」