藤澤山清浄光寺。藤沢市西富にある時宗寺院、遊行寺

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

藤澤山清浄光寺。遊行寺、時宗総本山

清浄光寺の概要

時宗寺院の清浄光寺は、藤澤山無量光院と号します。清浄光寺は、俣野五郎景平入道明阿が開基となり、遊行4世呑海(俣野五郎景平の兄弟)が開山となり、正中元年(1324)に創建、一遍上人の遊行を相承し、時宗総本山として朝廷・足利幕府の庇護を受け、徳川家康の関東入国に際しては寺領100石の御朱印状を天正19年(1591)受領しています。時宗総本山で藤沢道場とも唱え、遊行寺とも称されています。東国花の寺百ヶ寺です。

清浄光寺
清浄光寺の概要
山号 藤澤山
院号 無量光院
寺号 清浄光寺
住所 藤沢市西富1-8-1
宗派 時宗
葬儀・墓地 -
備考 -



清浄光寺の縁起

清浄光寺は、俣野五郎景平入道明阿が開基となり、遊行4世呑海(俣野五郎景平の兄弟)が開山となり、正中元年(1324)に創建、一遍上人の遊行を相承し、時宗総本山として朝廷・足利幕府の庇護を受け、徳川家康の関東入国に際しては寺領100石の御朱印状を天正19年(1591)受領しています。時宗総本山で藤沢道場とも唱え、遊行寺とも称されています。

新編相模国風土記稿による清浄光寺の縁起

(鎌倉郡大鋸町)清浄光寺
藤澤山無量光院と號す、時宗の總本山にて藤澤道場と唱ふ、此地東西四町南北六町許の際藤澤山と圍稱して自然別區の如し、遊行歴代譜に據るに開山呑海は遊行四世の僧なり、二世、他阿眞教の弟子にて俣野氏なり、初有阿惠永と號す、遊行する事七年、嘉暦二年二月十八日當山にて寂す、齢六十三、
正中二年(寺傳は元年と云ふ)極楽廢寺蹟に當寺を創す、(注釈を読む)
開基は俣野五郎景平入道明阿なり、(呑海の兄弟と云ふ、貞和元年十月十七日寂す、)
或は當寺宗祖一遍の剏立と云ふ説あれどあたらず、(注釈を読む)
當國にて一遍駐錫の地は高座郡當麻無量光寺なり、一遍は全く遊行の始祖にて當寺開山呑海は遊行を相承して、其四世の法嗣たり、當山の四世にはあらず、(注釈を読む)
當山三世一鎮(遊行六世、文和四年十二月廿二日寂す、)が時延文中将軍尊氏堂宇を再造し、寺領六萬貫を寄附あり、此頃迄は清浄光院と號せしが【(兎玖波集】にも藤澤の清浄光院にまかりて連歌し侍りけるに云々と見え、延文元年の鐘銘にも、院と記せり、)
是おり寺號に改め、院を無量光院と號す時に後光嚴帝宸筆の扁額を賜ふ、(己上【遊行歴代譜】及び【遊行由緒書】に據る)
當山六世自空、(遊行十一世應永十九年三月十一日寂す)が時回録に罹り、後當宇再興成て客殿は上杉中務少輔朝宗財を捨て再造せしとぞ、是應永中の事なり、(【遊行歴代譜】に據る)遊行十二世尊觀法親王と申せしは(注釈を読む)
後村上帝の御猶子たり(注釈を読む)
嘉慶元年二月自空が譲與を承け、遊行する事十年にして應永三年の秋京に入し序参内ありしに巡國化益の事肇て後小松帝の叡聞に達せしかば巡行の國々にて止宿夫馬等の事なく計ふべき宗、京都将軍に勅命を下さる、即斯波宜将奉はりて各國の守護に下知す、是遊行僧夫馬の印状を賜はる濫觴なり(遊行由緒書に據る)當山発生大空(遊行十四世、永享十一年十一月十四日寂す、)遊行道々觀奉はりて國々へ下知を傳ふ(注釈を読む)
此時三井寺の關所勘過の事も下知あり、即廿四年二月彼寺の衆徒が出せし請文今猶蔵せり(注釈を読む)
茲年七月國家安全の祈禱を修すべき旨稱光帝綸旨を賜ふ(注釈を読む)
遊行十五世尊惠(七條金光寺住職より、遊行を相承せしなり、永享元年六月八日金光寺にて寂す、)
巡國の時も、應永廿六年十月先規に任せ、管領満元入道觀國々に下知す(注釈を読む)
三十三年二月又回禄に罹れり、(【鎌倉九代後記】曰、二月十四日藤澤山炎上、)
當山九世南要(遊行十六世、文明二年五月十九日寂す、)時永享二年閏十一月後小松帝國家安全祈禱の勅旨あり(院宣曰、宣被奉祈國家安全寶祚長久者、院宣如此、仍執達如件、永享二年後十一月二日、他阿上人御房、權右少辨奉華押、)八年十二月南要遊行に赴くに及び、管領細川右京大夫持之奉はり、舊に據て巡行の國々に下知を傳ふ(所蔵文書に據る、其文前に同じければ贅せず、)鎌倉管領成氏が時は毎年正月十八日當寺の住職登營して管領衆に謁見す(【鎌倉年中行事】曰、正月十八日、藤澤山清浄光寺上人御参、御對面十二間又三十間御茶あり、御門送御縁迄也)或は臨時登營して十念を授くる事あり(曰、藤澤上人に、公方様御十年御請あり)
當山炎上の時は必管領洲崎迄御出馬ありて使節を遣はし安否を問しむ(曰、藤澤炎上の時公方様洲崎迄御出馬、夫より御使を被遣也、)總て管領家の應接慇懃なる、他寺に格別なり(曰、藤澤上人へ、公方様白洲迄御門送り在之、又曰、公方様御書、恐惺謹言と遊して進上書也、)是享徳中の格例なり、遊行廿二世音楽(駿府長善寺にて、遊行を相續す、永正十五年十月九日寂す、)巡國の時永正十年正月細川右京大夫義興、諸國の守護に先規の如く下知を傳ふ(遊行由緒書曰、遊行上人被回國之條、任先例其國之守護人調賄賂、幷以夫駄五十疋可被道通之旨、仍仰執達如件、永正十年正月十五日諸國守護中、右京大夫義興華押、)
今月廿九日諸堂回禄に罹れり
(遊行歴代譜曰、藤澤焼は、永正十癸酉正月廿九日、伊勢早雲亂云々、此時早雲と、みちさとの取合あり)後年遊行僧年久しく回國の事叡聞に達し丞に上洛して龍顔を拝すべき旨勅諚ありし事あり、年代を傳へざれど推考するに遊行廿七世眞寂(當山歴代に入らず、越後國稱念寺にて、遊行を相承し、天文十七年七月豫州願成寺にて寂す、)が時にて天文中の事なるべし(注釈を読む)
元龜二年七月武田信玄近郷にて三百貫文の寺領を寄附す
(曰、定、相模國藤澤二百貫、同州俣野之内百貫、右如此令寄附候、猶關東靜鑑之上、御本領之内重而一所可進置候之趣、可得尊意候恐惺敬白、元龜二年辛未七月十六日、清浄光寺玉床下信玄華押、)
當山十三世普光(遊行卅二世、寛永三年五月廿二日寂す、)が時山内悉く火災に罹り天正十五年再建の企ありしに孰の領地たりとも、良材あらんには恣に伐木あるべき旨、北條左京大夫氏直免許状を寄す
(曰、道場造營に附而、誰人於領中も用木見當次第可取之候、仍状如件、天正十五年九月三日、氏直の華押あり)
普光遊行六年にして同十七年八月越後國北條村専稱寺にて僧満悟に遊行三十三世の統を授け、當山に歸錫の時、九月直江山城守兼續路次の印状を投與あり(注釈を読む)
同十九年十一月寺領百石の御朱印を賜へり(其地西村と呼て一村落をなせり、)慶長八年六月境内禁制の掟を示さる(注釈を読む)
同十七年當山十四世、燈外(遊行三十四世、正保元年四月八日寂す、)巡國の時路次の御朱印を下し賜ふれり(注釈を読む)
當二十世信碩(遊行の統を襲がず、住職六年にして元禄九年九月廿七日寂す、)住職の際元禄七年十一月金魚を當寺域内に放つべき旨仰あり(注釈を読む)
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本堂。慈覺作の彌陀を本尊とす、清浄光寺の扁額は後光厳帝の宸翰なり、
位牌堂。日供堂とも唱ふ、
大方丈
小方丈
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【寺寶】
稱光帝綸旨一通
後小松上皇院宣一通。以上二通は前に註記せり、
後光嚴帝宸翰一通。清浄光寺の扁額なり、左に縮寫す、
徳阿君御願状一通。下宇賀神社の條に引用せり
台徳院殿御連歌御一巡一幅。雲紙金泥なり御は第七句を遊ばさる
大猷院殿御畫一幅。
後醍醐帝宸筆色紙一葉。左に縮寫す、
竹姫君御返翰一通。成佛行道の返書なり、文尾に享保十一年八月朔日、遊行他阿彌陀佛へ奉る返事、源綱吉女祐光とあり
後醍醐帝眞影一幅。常の御装束に、七條の袈裟を被せ給ふ、御座像なり、小野随心院宮杲尊法親王より、應永三年尊觀法親王に譲與ありし物と云ふ、
尊觀法親王影像一幅
法華經零紙一員。聖徳太子筆、紺紙金泥にて三行四十五字あり、
阿彌陀經一巻。弘法筆、
普門品一巻。菅公筆、
壽量品一巻。中将姫筆
浄土三部經四巻。尊園法親王筆
聖廟神號一幅。尊朝法親王筆
六字名號一幅。尊觀法親王筆
彌陀繍像一幅。中将姫の製造なり
佛面帳一幅。十一面觀音の梵字を繍せし金襴なり、唐織物にて、舊は和州泊瀬寺十八種八種の一なる、觀音頂上佛面の戸帳なるを、七條金光寺十三世知蓮遊行廿一世を相承して巡國せしに、永正元年八月、彼地に入て不慮に感得せしと云ふ、同二年二月蓮が自筆の記あり、此縁故を詳載すれど煩を省きて、此には載せず、
一遍告文一通
同繪詞傳二部(各十巻一は古縁起と唱へ、繪は粟田口民部卿法眼隆光、詞は遊行二世眞教筆なり、上筥は、加州中将の寄附なりと云へり、(以下中略))
水仙墨畫一幅(趙子昴の筆と云ふ、自讃あり、曰、明月殊衣解翠裳冰肌玉骨自清凉、不随王母瑶池去、未傳維摩病几傍、)
七寶念珠一連(尊觀法親王の遺物と云、)
棗一合(後醍醐帝の御製造にて、吉野金輪寺棗と號す、蔦の根を以て製し給へり、木地にして、木理露はる、尊觀法親王傳来せられしと云ふ、)
唐團扇市柄(遊行三十六世、加短小穂宇元年三月晦日、院参せしとき勧修寺権大納言經廣して、上皇の下し賜ひし物なり、荇蓎にて造る、加短自筆の箱書あり)
枝珊瑚樹一木(枝數十本あり陶器に植う臺に御紋章あり、遊行四十二世、南門尾州萱津光明寺にて化益の頃、延寶六年八月、内使壽昌院にて、尾州大納言光友卿より賜ひし物なり、)
三尊彌陀像三軀(黄金佛なりと云ふ)
瑪瑙石一顆(西土徑山寺、四季の景を刻せり)
香爐一口(紫銅なり、已上三品は天和中、尾州光友卿江府参向の時、當寺に寓宿せられ、寄附ありし物と云ふ、)
金磐一面(建治二年、信州伴野の領主伴野太郎時信新調して、一遍に附與せしなりと云ふ、)
檜墻女假面一面(一名溜息面と云ふ、筥中に在て大息の音外に聞ゆとなり、上杉大正大弼綱憲の臣、藤澤の人甘粕大膳政繼家蔵せしを、遊行四十二世、南門の十念、得脱の寶賽として、寛文九年五月奉納す、事は面の裏書に詳なり、延享元年十一月、加州金澤の人、菅原長雄極め添り、越中國氷見濱の隠者某、永和中の作と記す、)
太刀一振(白鞘に納む)
冑一刎(注釈を読む)
馬具皆具(是も實盛の所持なりと云ふ、青山下野守某が臣、堀田團右衛門が寄納せし物なり)
古文書二十二通(文面省略)
書院。前庭に池あり、
經蔵。
五智堂。天和の頃尾張大納言光友卿の造立にて本尊は赤栴檀もて造れり是も卿の寄納せられしなり、
寶塔
學寮
所化寮四
茶亭。方丈の後山頂上にあり、暗音の二字を扁す(松平越中守定信筆蹟、)四方燦然として富峰及び田野山海を眺望せり、
鐘楼。延文元年の古鐘を掛く(銘文省略)
總門。門外に制札及び下馬碑を建つ(裏門前も之に同じ)登靈臺の額を掲ぐ、紀伊大納言治寶卿の親筆にて文政十三年寄附せられしなり、
山門。二王を安ず、樓に藤澤山の額を掲ぐ、持明院権大納言基時の墨蹟なり(額背に貞享四年仲冬日、從二位藤原基時書之とあり、)
裏門。
觀音堂。
地蔵堂。
宇賀神社。(省略)
熊野社。境内の鎮神なり、
愛宕社。
應永戰死供養碑(省略)(新編相模国風土記稿より)


清浄光寺所蔵の文化財

  • 清浄光寺銅鐘(神奈川県指定重要文化財)

清浄光寺銅鐘

総高一六七センチ、口径九二センチ
鋳造は、銘文によると延文元年(一三五六)。遊行八代渡船上人の時にあたる。ゆ遊行寺開山以来、ようやく時宗が隆盛期に達した時代であった。
治工は、中世の関東地方で活躍した鋳物師の物部氏の一人、光連と考えられる。この他の光連の遺作には伊勢原日向宝城坊の暦応三年(一三四〇)銘梵鐘、鎌倉市東慶寺蔵の観応元年(一三五〇)銘梵鐘がある。
この銅鐘は、五段五列の乳の配列、上帯の飛雲文、下帯の蓮華唐草文、撞座の蓮華文などに物部様式の特徴を持つが、竜頭部や宝珠の表現にはすでに形式化がみえる。
銅鐘の銘文は、藤沢市伝来の梵鐘の中で最古のものであり、中世の時宗の姿や遊行寺を有する当時の藤沢の様子をつたえる貴重な史料である。
この銅鐘は、永正十年(一五一三)に後北条氏によって小田原へ持ち去られ、陣鐘として使用された。さらに足柄下郡の寿昌寺に移転されたが、江戸時代初めの寛永三年(一六二六)、遊行寺の檀徒の手により取り戻され、再びここに設置されたものである。(藤沢市教育委員会掲示より)

清浄光寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿