無量光寺。相模原市南区当麻にある時宗寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

当麻山無量光寺。時宗の開祖一遍上人創建、もと時宗大本山

無量光寺の概要

時宗寺院の無量光寺は、当麻山金光院と号します。時宗の開祖一遍上人智真が弘長元年(1261)に金光院と号して当地に創建、時宗2世真教が無量光寺と改号したと伝えられます。徳川家康関東入国後の天正19年(1591)には寺領30石の朱印地を拝領、明治期には時宗大本山として、数多くの末寺を擁していました。

無量光寺
無量光寺の概要
山号 当麻山
院号 金光院
寺号 無量光寺
本尊 聖観世音大菩薩
住所 相模原市南区当麻578
宗派 時宗
葬儀・墓地 -
備考 時宗の旧大本山、光明学園相模原高等学校併設



無量光寺の縁起

無量光寺は、時宗の開祖一遍上人智真が弘長元年(1261)に金光院と号して当地に創建、時宗2世真教が無量光寺と改号したと伝えられます。徳川家康関東入国後の天正19年(1591)には寺領30石の朱印地を拝領、明治期には時宗大本山として、数多くの末寺を擁していました。

平成さがみはら風土記稿による無量光寺の縁起

無量光寺は、当麻のバス停「坂下青年の家」のすぐ前、亀形峰と呼ばれる小高い丘の上にある時宗の大本山です。
『風土記稿』やホ『麻山集』の内容を要約すると、本寺は金光院当麻山と号し、時宗の大本山で、古くは「当麻道場」と称されて11ケ寺の末寺を持っていたとされています。
開山は「遊行上人」と呼ばれ、時宗の開祖でもある一遍智真〔正応2年(1289)没〕です。
弘長元年(1261)一遍は諸国遊行の際にこの地を訪れ、金光院という一字を設けたといいます。また、弘安5年(1282)に旅立つ際には自らの木像を刻んだといわれ、これは現在、当寺の本尊であると同時に、昭和33年には最初の市指定重要文化財になっています。
嘉元元年(1303)一遍と遊行を共にした2世真数は金光院を無量光寺と改め、伽藍を建立しています。
その後、当寺は室町時代には後北条氏と深い係わり合いを持ち、また天正19年(1591)には30石の朱印地が与えられるなど、大寺院としての威容を保っていました。
市の史跡にも指定されている広大な境内には、歴代住職の宝筐印塔が立ち並んでいます。
また、毎年10月23日の開山忌には稚児行列や雅楽、双盤念仏などが行われ、壇徒や見学の人で賑わっています。(平成さがみはら風土記稿より)

平成さがみはら風土記稿による無量光寺の縁起

(當麻村)無量光寺
當麻山金光院と號し、當麻道場とも呼べり(天正中御朱印の文に當麻道場とあり、)時宗(舊は浄土宗時衆派と號す、)無本寺にて十一ヶ寺の末寺を統、開山一遍上人
(注釈を読む)来由記略曰、一遍は豫州越智の城主、河野七郎通廣の子同源次通眞の息にて松壽丸と稱す、延應元年二月十五日誕生寛元三年正月、七歳薙髪随縁と號す、十八歳康元元年八月叡山に登り慈源僧正を師とし、顯密二教を學び、出離の難きを知、遁世して一向専修の行者と成、頭陀念佛して回る國す、)
弘長元年此地に遊化す、里人一宇を造て金光院と號す
(注釈を読む)(二十三歳、弘長元年愛甲郡上依知村薬師堂に来り、終夜念佛せし時東北の方に靈光現ずるを拝し、杖笠を捨尋行、按ずるに薬師堂は今瑠璃光寺と號し、末寺に屬す、杖は椰樹にして根生芽出、今も境内にあり、相模川を渉り當村に至る、丘上大木繁茂の中に妙見の小社あり、果して靈地なることを知、飲食を斷て念佛す、里人渇仰し、一宇を造て金光院と號す、此時本國河野の一族、關山某並白井等、上人を尋来り卜居して擁護す、關山氏子孫尚村内に在、白井氏は隣村田名村に在)
留錫四年京師に至り、文永七年皈院す
(注釈を読む)(上人此所の留錫すること四年、故に當寺を上人初開の地と號す、二十六歳、文永元年二月錫を曳て洛陽西谷観音上人の許に至り、三脈相承す、改て智心房と號す、同七年秋三十二歳相州金光院に皈る、)
明年他方に遊行し、建治二年紀州熊野に参籠し、権現の神勅を蒙り、名を一遍と改む、
(注釈を読む)(同八年鎌倉に至て大覺禅師に謁す、同九年豫州に赴く、同十一年鎮西の良惠上人に謁す、建治元年春、宇佐八幡宮に三七日参籠す、回國結縁の大願靈夢あり、始て名號の箋を作て諸民を勧化す、同年秋京に至る、又宇佐の靈夢を蒙り男山に参籠す、神託有て紀州熊野神祠に詣で、十二月より百日を期して證誠殿に籠る、翌年三月五日寅刻、権現して神勅あり、頌文に六字名號一遍法、十界依正一遍躰、萬行離念一遍證、人中上々妙好華、此神勅並口傳は、當麻山歴代住持相傳して他に漏さず、是より改て一遍と名づく、以来賦箋名號の下にも決定往生六十萬人と記す、同三年秋九州に至、念佛弘通盛にして化他利益莫大なり、)
弘安四年金光院に歸り、明年發杖の時衆の願に任せ、自ら影像を寫し與ふ、高足智得を院内に止め、眞教と共に遊化し、正應二年八月二十三日攝州兵庫の津にて遷化す
(注釈を読む)(弘安四年春金光院に歸り、鎌倉に到に良道上人皈依淺からず、二字を賜り、量阿智得と名づく、同五年回國發杖の時、道俗時衆の願に任せ、自ら鏡を取、頭面を照見て影像を寫し與ふ、此時眞教智六、關山民部、同又六郎等力を合、其畫を模して上人の像を彫刻す、頭は上人自ら作る、依て直作の像と號す、長五尺三寸、當時山林の中に安じて上人自ら開眼す、依て當山を鏡の御影の靈場とも云、智得は金光院に止り、上人並眞教回國修行に赴き、正應二年七月淡州より攝州兵庫に至り、観音の靈場を旅館とす、上人小惱あり、他阿彌陀佛眞教に言て曰、我化縁已に盡すとて僧伽梨を傳へ、且つ遺誠の法問を自書して付屬し、又道俗時衆に遺誠を示し、八月二十三日卯刻、衆と共に晨朝禮讀と誦し、阿彌陀經作禮而去の文に至て、儼然として定に入て座化す、時年五十一、臓三十七、遺骸を観音堂地中に収む、此時開山の遺言を以、抜歯五枚當山に贈る、内三枚は像背に収め、二枚は石碑中に収む、按ずるに、一遍上人縁起前の由来記と齟齬する所往々あれど、古くより當山に傳ふる所なれば、大略を摘擧す、)
二世他阿眞教先師の遺言に任せ、諸國遊化し、嘉元元年二月當院に留錫し、新に堂宇を造て當麻山金光院無量光寺と號し自其二世たり、久明親王寺領及守護不入の朱印を賜ふ、嘉元二年法弟智得に他阿の號を授て遊行せしむ、眞教元應元年に卒す
(注釈を読む)(来由記曰、建治三年一遍九州に至り、念佛弘通の時、鎮西辨阿上人の嗣法辨西上人の上足、眞教房連阿と云、瑞光寺に住す上人に歸依して二字を賜り、連阿を改て他阿彌陀佛眞教と名け、随從回國遊行す、上人年三十九眞教房年四十一、一遍迂化の後、眞教上人師の遺言に任せ、諸國遊行す、正安三年八月攝州兵庫に至り、師の十三回忌、報恩別行念佛一七日畢て又遊行す、嘉元元年二月相州に至り、堂宇を造營して當麻山金光院無量光寺と號す、時の将軍歸依淺からず、一遍上人を以て開山とし眞教上人に二代の職を嗣しめ寺領三十石、境内守護不入の朱印を賜り、道俗群をなし寮舎二十軒、追々造營す、在住十七年故上人の上足、量阿智得上人、嘉元二年他阿彌陀佛の號を授りて囘國す、是より已来他阿を住職の號とす、元應元年正月廿七日、二世眞教上人入寂八十三、【高僧傳】曰、釋陀阿宇眞教、也姓源氏、平安城人侍然阿久、後師一遍眞公、巡歴天下誘化念佛、旹號遊行、於洛之七條南、創黄臺山金永寺、浄衆千指、修西方業、一日結界地、生白芙渠、誠修之感、都人讃嘆、捨□歸眞者日益多、後住相州、開當麻山無量寺、勧掖東關、府士雑沓、下馬臺塞、元應初年月得微疾、二十八日整衣敷座、唱彌陀念佛終於正寝、壽齢八十有三、法臘若干歳、遐邇聞裏、拊胸哀悼、陀甞寥大覺禅師于建長、看陀是阿誰之因縁久之有省、即稟印可云、按ずるに僧傳等に據に實は眞教當寺を開基して、先師一遍を請待開山とせしなり、先に金光院と云るは、一遍暫寓居の草庵にして、一寺にはあらざるなり、)
同年智得皈山し第三世に居れり、時に執権平貞顯の内命により智得病と稱し、遊行を辭せしかば、弟子吞海に其事を命ぜらる、内命の主旨出家の正義を背をもて遂に吞海を勘氣す是より當山の住僧遊行せずと云、元應二年智得入寂の後、附弟眞光四世の職に當れり、時に吞海一寺を藤澤に造立して清浄光寺と號し、相續て遊行す、然りしより藤澤と確執に及べり
(注釈を読む)(来由記曰、同年遊行他阿智得皈山、時に執権平貞顯より三世の職を蒙り、又遊行の命ありと雖も、其命内密の意趣あるを以て、病と偽り堅く辭す、依て弟子吞海を呼て、貞顯内密の事を達し、上下往返の人馬朱印を賜り、遊行の事を命ず、智得請らく今度の遊行、外には開山以来の化益を示し、内には佛法の正意を背き、出家の業に非ず、然ども公命黙止し難く、依て生々世々勘氣すとて障子を隔てゝ吞海を外庭に座せしめ、十念を授け離別し、吞海諸國を遊行す、同二年七月朔日智得入寂、依て附弟眞光四世の職に居る、同年九月吞海平塚皈杖せしに、眞光四世住職の事を聴、将軍家に請て正中元年、同國藤澤に清浄光寺を建、夫より代々相嗣て遊行す、然れども正意味の遊行に非ず、吞海勘気を受し例により、今も清浄光寺遊行發杖の時、遊行を外庭に座せしめ、嗣法の當住却て簾中に居り、行者に十念を授くと、今もかの清浄光寺及門徒に至るまで當山に出入することを許さず、)
當寺一遍駐錫の舊寺たる間、小田原北條氏分國の頃も皈依淺からず、當時の文書朱印等今に蔵す、寺傳に、往昔長阿彌君(世良田左京亮有親君)徳阿彌君(松平太郎左衛門親氏君)御薙髪の御舊跡なるが故に(下の御本尊及御髪塚の條に詳なり)御打入の後内藤修理亮清成を以て御由緒上聞に達し、天正十九年十一月先規の如く境内不入、並寺領三十石を御寄附あり、其後寺中の制札を出され
(注釈を読む)(定、於當寺内地頭代官非分之事、於寺中假初にも狼藉之事、竹木剪取田畑抜取之事、右之條々於違犯之輩者、可有披露、可處嚴科者也、三月日奉行)
又殊ある寺格を賜ひしとなり、是より先北條氏の頃近村の原野にて草木萱等を苅事を許さる、
(注釈を読む)(所蔵北條氏文書曰、當麻山寺中へ可苅取草木並萱之事溝原淵邊原矢部原田名野、右於原中爲先寶樹院知光院手判、可爲苅取、不可有相違者也、云々、申十二月廿日當麻衆中、)
本堂。一遍木像(立像長五尺三寸、前の寺傳に自作と云もの是なり、)及眞教智得の二像を安ず(共に木座像智得作、)
佛殿。本尊阿彌陀、東照宮より御歴代、又長阿彌君、徳阿彌君の尊牌を置奉る
【寺寶】
釋迦肉色佛舎利一粒(一遍感得の物と云)
宇賀神一軀
(注釈を読む)(木座像長二寸許、今腹籠とす、相傳て長阿彌君、徳阿彌君の御守本尊と云、寺僧曰、徳阿彌君宇賀神恩願文、往昔當山に在しが、兵亂の頃失しと、按ずるに、村民關山氏の古記に其寫あり、即藤澤山に傳る、迎僧寄志願の御文なり、宇賀神も亦彼山に安置せり、尚清浄光寺傳併せ見るべし、)
阿彌陀像一軀
(注釈を読む)(河野氏傳来の靈佛にして、一遍襟掛本尊と號す、立像長二寸九分、一遍七歳より佛乗に志し、此像を持念せしとなり、)
三尊彌陀像各軀
(注釈を読む)(彌陀立像、長尺八寸許、脇士共に立像、長尺三寸許、北條貞時寄附する所、塔頭金光院の本尊なりと云、躰中に一遍襟掛の彌陀を収む、依て笈の如来と呼ぶ、)
六字名號銅印一顆
(注釈を読む)(開山像の背中に収む、建治二年三月二十五日夜、熊野権現示現ありて、一遍に附属せらると云、事は前の寺傳に出す、是を當山御印文と稱し、五十年毎に一度道俗に拝せしむ、)
熊野権現像一軀(一遍作、木像尋常ならず、長四寸餘立像、)
一遍木像一軀
(注釈を読む)(熊野木像の側に安ず、長三寸、二世眞教作此二像を並て神勅傳法の本尊と號す、)
一遍畫像一軀(鏡にて寫せし自畫の像なり、寺傳の條に辨ず、)
一遍持蓮一柄(木にて作、長一尺二寸五分、)
磐一架
(注釈を読む)(鐡にて作る、圓形なり、徑六寸三分一遍手澤の物なり、相傳ふ信州佐久郡化益の時瓢を叩て念佛す、よりて郷民此磐を寄附すと、裏に南無三皇二十一者の八字を彫、)
名號一幅(一遍筆、)
不動像一軀(銅座像、長五寸許、内藤修理亮清成守本尊なり、清成領地の頃寺領御朱印の文を取次しにより此像を御朱印由緒の本尊と號す、)
福満虚空蔵像一軀(座像長九寸行基作、崇源院殿御持念の像にて後に春日局に賜ひ、又巨瀬求馬某に付屬し、後江戸西久保大養寺に傳へ、故ありて當寺に傳来と云)
熊野権現本地佛一軀(紀伊中納言宗直卿御寄附せらる、葵の御紋を繍せし錦袋に入、彼卿自印封せらる、)
薬師像公(座像長四寸許、腹籠の小像あり、平貞時守本尊なり、もと塔頭和光院本尊なり、)
地蔵像公(座像長四寸許、是も貞時守本尊にて、塔中地蔵院の本尊なりしと云)
古文書十五通(永正より天正中迄、北條氏當寺へ出す所の文書制札等十二通、道興及長雄千葉介昌胤等の書簡三通なり、皆藝文の部に載す、)
鎮守三社
熊野(寶物の條に出せし開祖一遍作の像を祀る、)
妙見(寺傳に一遍靈光を感じて、當所に来りし時深林中に小社あると記せる是なり、)
白山(神躰は、三世智得上人作、)
啓運辨天社(座像長五寸許、腹籠に同像五寸許の像あり、是長阿彌君御守本尊なりと云、)
山神社
鐘樓
長阿彌君、徳阿彌君御髪塚二基
(注釈を読む)(共に五輪の石塔、長各三尺九寸五分、寺傳に往昔兵亂の頃、世良田左亮有親君、松平太郎左衛門尉親氏君御父子亂を避て當山に御入、暫く御滞留、八代の住持良光上人に御附属ありて御薙髪あり、父君を長阿彌、御嫡を徳阿彌と稱し給ひ、此所に御髪を埋むと云、其頃御所持本尊、宇賀神辨財天の二躰を御安置ありて御願文を遊され、其後二像及随從の御家士二人を當山に殘し給ひて、御父子は當山に御歸あり、殘りし御家士二人も剃髪して寺中長蔵庵、其餘の一庵に住せしより、彼兩庵の内にて逝去ありしより、御髪塚に葬奉りしとも云へど、當山にて逝去のことは寺傳なし、御家士二人、寺中庵に殘りしことは云傳ありと云、按ずるに清浄光寺傳と異同あり、殊に御當代御遠祖の御事なれば、御事蹟の考は妄に記さず、暫寺傳のまゝをのす、)
名號石三基(一遍、眞教、智得等の名號を刻す)
加持水。艮隅にあり、旱魃にも涸ずと云、當所を笈退(乎比佐利)と云
(傍に高三尺程の石あり、寺傳に一遍此地に来りし時石上に笈をおろし、佛を出して居置加持せしかば此水湧出す、依て從者に笈を退去すべしと命ず、故に此地名起れり、)
木槵樹一株
(注釈を読む)(古記に昔愛甲郡田代に尊生法師と云僧あり、初は三井の學徒なり、晩年念佛の行者となる、或時信州善光寺に詣、夢中に如来示て云、河州土師寺は菅家の寺なり、彼寺の木槵樹子を取て念珠を作、百萬遍の稱名を課さば、必往生を得べしと依て彼寺に請種子を得たり、其時天神託宣に、我昔子孫の爲、五部の大乗經を書寫して此地に埋む、此樹は其軸より生ずる所なり、汝が住所の邊に念佛勸化の道場あり、其地に種べし、我結縁せんと欲すと、則其實を携て住庵に歸り、念佛の道場を窺に此當麻山に如ものなし、因て二世眞教にさゝぐ、時に延慶二年なり、眞教境内に種樹す、此樹回録に罹り、枯失すといへども五七年を過れば、又葉生す、子實菩提樹に同じと云、)
塔頭。
金光院、西光院、智光院、龍花院、地蔵院、成就院、清徳院、東慶庵、以上今現存す、
寶樹院、長慶印、傳徳庵、寶珠庵、長蔵庵、以上五院は廢す
尼寮四宇。是も今廢す、按ずるに、天文十一年の制札に、尼方に誰にても、不可取陣云々、又天正十九年二月改の水帳に屋鋪二十六間、當麻山法師方、同十五間同山尼方とあり、當時尼寮も多かりしこと知らる、間は軒の誤なるべし、
樓門。安永二年焼失して未再建に及ばず(平成さがみはら風土記稿より)


無量光寺所蔵の文化財

  • 無量光寺山門(相模原市指定文化財)
  • 木造一遍上人立像(相模原市指定文化財)
  • 無量光寺文書(相模原市指定文化財)
  • 無量光寺境内及び笈退の遺跡(相模原市指定史跡)
  • 無量光寺の徳本念仏塔(相模原市登録文化財)

無量光寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿
  • さがみはら風土記稿