平塚八幡宮。平塚市浅間町の神社

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

平塚八幡宮。平塚宿の鎮守、湘南ひらつか七福神の毘沙門尊天

平塚八幡宮の概要

平塚八幡宮は、平塚市浅間町にある神社です。平塚八幡宮の創建年代等は不詳ながら、仁徳天皇の68年に相武で大地震が起こり、応神天皇の神霊に祈願したところ、沈静化したことから、相模川の川下にあたる当地に八幡大神を祀り創建したといいます。往古より相模国の五の宮と称され、北条政子の出産に際して源頼朝は当社へも神馬を奉納、徳川家康が関東入国した翌年の天正19年(1591)には社領50石の御朱印状を受領しています。明治維新後の社格制定に際して明治6年郷社に列格、昭和15年には県社に昇格していました。湘南ひらつか七福神の弁財天です。

平塚八幡宮
平塚八幡宮の概要
社号 平塚八幡宮
祭神 応神天皇、神功皇后、武内宿祢
相殿 -
境内社 若宮社、神明社、諏訪社、浅間社、道祖神、弁財天、鶴峯山稲荷神社
祭日 例大祭8月第一日曜日
住所 平塚市浅間町1-6
備考 -



平塚八幡宮の由緒

平塚八幡宮の創建年代等は不詳ながら、仁徳天皇の68年に相武で大地震が起こり、応神天皇の神霊に祈願したところ、沈静化したことから、相模川の川下にあたる当地に八幡大神を祀り創建したといいます。往古より相模国の五の宮と称され、北条政子の出産に際して源頼朝は当社へも神馬を奉納、徳川家康が関東入国した翌年の天正19年(1591)には社領50石の御朱印状を受領しています。明治維新後の社格制定に際して明治6年郷社に列格、昭和15年には県社に昇格していました。

新編相模国風土記稿による平塚八幡宮の由緒

(平塚新宿)
八幡社
當宿及八幡・馬入三村の鎮守なり、祭神應神天皇、神躰神秘(前立の像あり、長二尺五寸、弘法作、)左に香椎明神(古は別社あり、今境内亀甲山と稱する所、其蹟なり、)右に高良明神(是も境内松山の上にありしと云、)を配祀す、本地佛阿彌陀(別當寺本尊なり、)當社は當國第五の宮(古より八幡宮と稱して、五宮の唱はなし、按ずるに、【東鑑】にも四宮の次に八幡宮と載す、又一宮以下祭禮の時、神輿を列する次序も、當社第五にあり、一宮は高座郡宮山村、二宮は淘綾郡山西村、三身やは郡中三之宮村、四宮は四宮村にあり、)なり、社傳に、神龜年中諸國一宮へ、法華經を納められし時、當社へも納め給ひしと云、建久三年八月源賴朝神馬を奉らる、是婦人安産の所願に依てなり(【東鑑】曰、八月九日御臺所御産氣、相模國神社佛寺、奉神馬、被修誦經云々、八幡宮、按ずるに、四ノ宮の次に、八幡宮と載せたれば、當社なる事論なし、)文明十八年道興准后社参ありて、和歌を詠ず(【回國雑記】曰、八幡といへる里に神社あり、法施の次に梓弓やはたを爰にぬかづきぬ、春は惠の山に待みむ、)天正十九年十一月、先規に因て社領五十石を賜ふ、年中祭事は正月十五日(筒粥神事、)二月初卯日・五月五日(淘綾郡國府本郷村、神揃山へ、一宮以下五社の神輿を渡し、神事ありて後歸座、)七月七日・八月十五日(宿内海邊迄神輿を渡す。)十一月初卯日等なり、社地のさま、東海道往還北側に銅鳥居(鶴峯山と扁す、)あり、是より大門にして、百七十間許入て小橋を渡り又少く行て池あり、反橋石を架す、爰に仁王門建り、是を入少許の石階を登て社前に至る、幣殿・拝殿等あり、又東海道の南側に濱大門と唱ふるあり(長八十二間餘、)
【神寶】太刀一振(無銘長三尺二寸五分、)刀一口(長二尺八寸)大般若經全部
鐘樓。寛永十九年鑄造の鐘なり、銘文あれど考證に益なし、
東照宮。御神躰幣束、
末社。若宮八幡、神明、天神、諏訪、辨天、愛染、第六天、浅間荒神、客人
稲荷二
松樹。神木なり(圍一丈三尺餘、)又槙の老樹(圍一丈一尺餘)あり、
供所
仁王門
別當等覺院。鶴峯山成事智寺と號す、古義真言宗(京東寺、寶菩提院末、)關東檀林、三十四院の一なり、開山開基詳ならず、舊くより當社別當にして、等覺寺と號す、(以下省略)(新編相模国風土記稿より)

神奈川県神社誌による平塚八幡宮の由緒

社伝八幡宮縁起によれば仁徳天皇の六十八年、相武の地に大地震が起り山崩れ、河水の氾濫と官舎民屋全く倒潰惨状目をおおうばかり、天皇いたく宸襟を悩まされ、手厚く祭祀を行い、応神天皇の神霊に祈願なされたところ大震災は忽ち消えやみ静穏にかえった。そこで相牟国上取県主に命じて相武川の川下に社殿を創建して八幡大神を斎き祀られたといわれる。
天平勝宝の古記によると顕宗天皇は小念魚贄の膳部を定め其の料として稲秀麦大豆多量を献げられ、仁賢天皇は四千余町の土地をお寄せになられたといわれ、推古天皇の代相武の地に再び大地震があり、人民の苦しみを見かねて、天皇は”鎮地大神”の御宸筆を捧げて祈誓なされたところ国土が静穏に帰したので新たに宮殿を造営なされ、天武天皇はこの地の税三四郡の三分の二を寄せられ、文武天皇は”天晴彦”の宝剣を奉献になられたことが伝えられている。寛永十四年(一六三七)筆録の八幡宮記と新編相模風土記に、当社こそ相州一国一社の霊場で、聖武天皇が法華経を奉らしめた所であるといわれている。岐阜県高山市山口に鎮座の桜ヶ岡八幡神社は寛治元年当宮の御分霊が勧請されたもので高山祭で有名な桜山八幡神社の本社である。東鑑には建久三年(一一九二)源頼朝は夫人安産のため神馬を奉納し天正十九年(一五九一)徳川家康は社領五十石を寄進、慶長年間には自ら参拝し伊奈備前守に命じて社殿の再建造営を完工し、尚正保三年(一六四六)幕府は社殿営繕料として山林二ヵ所の寄進を行っている。明治六年七月三十日郷社に列格、明治二十七年明治天皇王女常宮、周宮両内親王殿下が参拝になられ社前に松樹をお手植えになり神池之緋鯉をご放生になられた。明治四十一年四月三十日神饌幣帛料供進の神社に指定され、昭和十五年十二月三日県社に列格。昭和五十三年八月十八日”八幡神社”を”平塚八幡宮”と改称。神社本庁別表神社。(神奈川県神社誌より)


平塚八幡宮の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿
  • 神奈川県神社誌