平塚八王子神社。平塚市見附町の神社

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

平塚八王子神社。旧東照宮

平塚八王子神社の概要

平塚八王子神社は、平塚市見附町にある神社です。平塚八王子神社の創建年代等は不詳ながら、徳川家康が中原御殿を往還された際に当地で休息したことから、徳川家康(東照宮)を祀り創建したと伝えられ、徳川家康の従者笹尾正成(明暦2年1656年没)が社殿を建立したといいます。その後いつしか八王子社を祀るようになり、明治維新後は国家祖神二柱を奉斎しているそうです。

平塚八王子神社
平塚八王子神社の概要
社号 八王子神社
祭神 天照大神、素戔嗚尊
相殿 -
境内社 -
祭日 例大祭4月17日
住所 平塚市見附町40
備考 -



平塚八王子神社の由緒

平塚八王子神社の創建年代等は不詳ながら、徳川家康が中原御殿を往還された際に当地で休息したことから、徳川家康(東照宮)を祀り創建したと伝えられ、徳川家康の従者笹尾正成(明暦2年1656年没)が社殿を建立したといいます。その後いつしか八王子社を祀るようになり、明治維新後は国家祖神二柱を奉斎しているそうです。

境内掲示による平塚八王子神社の由緒

八王子神社縁由緒
天黒大神と弟の須佐之男命が天ノ安河で誓いの禊祓いをされたとき、三人の王女と五人の男子計八王子を生んだ。これが神社の名義である。天神社の傍に八王子古道が通っていたのが名義であるとも言われる。
祭神徳川家康については、家康が中原御殿に往還されたとき此地で休息された。家康は東照大権現と尊称されたので略して権現さんと親しんだのである。創祀は不詳であるが家康の従者笹尾正成(明暦二年没)が石祠に過ぎなかったのを多額の負担をして神社としての社殿にした。正成の子孫は大笹屋として西仲町に居す。
二十四軒町は平塚八幡宮の氏子、十八軒町は平塚春日神社の氏子、故に四月十七日の例大祭には両者の役員で奉仕、併し春日神社の御酒所のときは十八軒町だけで奉仕する。
昭和六十二年十月吉日 八王子神社役員一同(境内掲示より)

新編相模国風土記稿による平塚八王子神社の由緒

(平塚宿)
八王子社
毎年四月十七日、當社にて東照宮へ、神酒供物等を献ず、其御由緒詳ならず、此邊御放鷹の時、御休息などあらせられし地ならんと云(安永七年御神號を木札に書し、安置し奉る、)
末社。稲荷(新編相模国風土記稿より)

神奈川県神社誌による平塚八王子神社の由緒

当社は八王子神社より「権現さん」と一般に呼び奉る方が通りがよく親しまれている神社で、初めは東照宮として徳川家康公を奉祀していたが後に八王子神を祀り、更に明治以降は国家祖神二柱を奉斎申し上げていると伝えられている。
安永七年(一七七八)棟札の写しには『奉造立東照大権現国土安全攸』とあり、文政八年(一八二五)地誌取調書上帳にも「東照宮社一ヶ所」「当宿内字十八軒中程而 東照大権現御社有之年々四月十七日御神酒御供奉献候」とある。後に東照権現を表むきお祀りするのは憚られるようになって、八王子権現と公式には改称せられた。天保六年(一八三五)地誌御調言上帳には「小社八王子権現」としてあり、以後の公文書はみな同じである。然し新編相模風土記に「八王子社 毎年四月十七日 当社ニテ東照宮ヘ神酒供物ヲ献ズ」とあるように、地元の人は家康公の遺徳を讃えることを怠らなかった。大人物である公に、人々が福徳を願った神社とする言い伝えもある。創祀の昔に逆上り、御祭神との縁故をたずねると、新編相模風土記に「此辺御放鷹ノ時、御休息ナドアラセラレシ地ナラン云々」としているのも認められる。戦前に此の境内は「中原御林」と言った幕府官林の面影を止め、見上げるような松の大木が多くあった。その傍の社殿背後に「明治三十三年一月一四日」と掘った道祖神石祠があった。是は文政八年(一八二五)書上帳に見える「本宿入口字十八軒御林之内北側」にあった道祖神を再建して奉遷したものと言われる。(神奈川県神社誌より)


平塚八王子神社の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿
  • 神奈川県神社誌