平塚春日神社。平塚宿の鎮守、湘南ひらつか七福神の毘沙門尊天
平塚春日神社の概要
平塚春日神社は、平塚市平塚にある神社です。平塚春日神社の創建年代等は不詳ながら、当初十間坂の一角に鎮座、源頼朝が馬入川橋を建久2年(1191)に建立した後、祈願所として黒部宮とともに当社も当地へ移転したといいます。江戸期には平塚宿の鎮守として祀られ、慶安2年(1649)には江戸幕府より社領6石の御朱印状を受領、明治維新後の社格制定に際しては明治6年村社に列格していました。湘南ひらつか七福神の毘沙門尊天です。
社号 | 春日神社 |
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祭神 | 天児屋根命 |
相殿 | - |
境内社 | 春日天満宮、春日稲荷神社、春日龍宮社、春日龍王社、毘沙門天堂 |
祭日 | 例大祭8月第一日曜日 |
住所 | 平塚市平塚4-18-1 |
備考 | - |
平塚春日神社の由緒
平塚春日神社の創建年代等は不詳ながら、当初十間坂の一角に鎮座、源頼朝が馬入川橋を建久2年(1191)に建立した後、祈願所として黒部宮とともに当社も当地へ移転したといいます。江戸期には平塚宿の鎮守として祀られ、慶安2年(1649)には江戸幕府より社領6石の御朱印状を受領、明治維新後の社格制定に際しては明治6年村社に列格していました。
新編相模国風土記稿による平塚春日神社の由緒
(平塚宿)
春日社
宿の鎮守なり、神躰木像(長一尺六寸行基作、)往古は黒部宮と號す、建久二年源賴朝入川橋供養の爲、當社勧請ありし由縁起に見えたり、三年八月賴朝夫人、平産の祈願として神馬を納めらる
(【東鑑】曰、八月九日御臺所御産氣、相模國神社佛寺、奉神馬、被修誦経、云々、黒部宮、平塚、範隆寺平塚、按ずるに、範隆寺は別當寺の舊號なり、)
慶安二年八月社領六石、舊に依て寄附せられ、御朱印を賜ふ、例祭六月十五日(隔年に神輿を海邊に渡し舊社地にて神事あり、)
古は社地東海道往還より六七町海岸の方、字十軒坂にあり、後今の地に移れり(舊地に稲荷の小祠あり、)幣殿・拝殿・神輿堂等あり、
鐘樓。寶暦五年鑄造の鐘(銘文あり、)を掛、
末社。稲荷、疱瘡神、妙儀、金毘羅
山王
天神
十王堂
別當廣蔵寺。平塚山延命院と號す古義真言宗(淘綾郡大磯宿地福寺末)古は範隆寺と號す、建久三年八月賴朝夫人安産の爲誦經を命ぜし事【東鑑】に見ゆ(其文本社の條に載す)今の寺號に改めし、年代詳ならず、本尊地蔵、(新編相模国風土記稿より)
神奈川県神社誌による平塚春日神社の由緒
承応三年(一六五四)六月記の春日神社縁起一巻によると、「平塚山黒部宮は建久二年(一一九一)右大将頼朝卿が馬入川橋供養の御祈願所にして橋成就の後に勧請云々。相模川橋供養は吾妻鑑に、稲毛三郎重成の妻(右大将頼朝御台所御妹)武蔵国に没す。重成は別離愁頗に耐えず出家、東鑑に建久九年十二月二日、稲毛三郎重成法師として妻追福のため相模川橋を新造したとある。(中略)黒部宮別当は範隆寺なることが、東鑑に建久三年(一一九二)八月九日将軍家御台所御産気のため相模国神社仏寺に神馬を奉り御祈禱すとある。所謂福田寺、平等寺、範隆寺、黒部宮新楽寺、高麗寺と神社仏寺彼是二十七ヶ所である。
右の内黒部宮範隆寺は今は異名だが当聚落は現在の地から八町程南の十間坂の一角にあったが、当時は海が近く、汀線がずっと北にあったため社地が高浪に洗われたり社殿が風で吹き飛ばされるようなことが度々あった。そこで別当の範隆寺や社地をとりまく門前の居住者達は北方のそうした憂いのない地に集団で移住した。それが現在の地である。(中略)そして『此一件最可信者乎然者往古黒部黒者当時春日宮分明也』とある。また、当時頼朝卿が御朱印を御寄附した所が元和年中(一六一五~一六一六)に焼失し、その後大猷院殿より新たに六石の御朱印を賜わった。その時に号を改めたとあり『然則古範隆寺者今広蔵寺事難及異求者也』とある。
現在の春日神社附近一帯は遺物の散布地で、少し心をとめて散歩すると到る所に弥生式文化時代以降の土器の小破片を見い出すことができる。したがってこのあたりは紀元前後のころから古い平塚人がずっと住んでいたことがわかる。また、神社の東隣には天安元年(八五七)二月薨じたと伝説されている平真砂子の古墳という平塚の塚とその碑が建っている。故に汀線間近くあった黒部宮を北方に移した時期は鎌倉時代ということになる。(平塚市文化財調査報告書による)
ここに色々総合してみるに、縁起の始めに「建久二年(一一九一)黒部宮を頼朝馬入川橋供養の祈願所として橋成就後に此所に勧請云々」の此所とは現在地を指すものと考えられ、「頼朝正治二年(一一九九)一月十三日死す」の史実から見て、黒部宮が春日神社として現在地に移し改名されたのはこの八年間の頃と推察される。また、慶安二年(一六四九)八月、徳川氏より社領六石を寄進せられた。明治六年七月三十日村社列せられ、明治四十一年四月三十日神饌幣帛料供進の神社に指定された。現境内地は椎・楠・松・欅などの大木が生い繁り、参道に沿って天保十四年(一八四三)在銘の狛犬を始め、文化七年(一八二四)文久三年(一八六三)在銘の石燈籠など、数基ある。宝暦五年(一七五五)鋳造の梵鐘を太平洋戦争の時に供出したが、昭和四十二年鐘楼と共に再鋳再建した。昭和四十八年専任宮司就任を記念して境内東側南側一五〇米に及ぶ稲田石の玉垣を造営した。また、かつて湘南随一を誇った大神輿の復興・神輿庫再建を昭和五十三年春に完成している。(神奈川県神社誌より)
平塚春日神社の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 神奈川県神社誌