片岡神社。旧称雷電社
片岡神社の概要
片岡神社は、平塚市片岡にある神社です。片岡神社は、京都下加茂社を勧請して永承2年(1047)に創建したと伝えられ、鎌倉幕府成立頃より雷電社と称され、北條雅子の出産に際しては源頼朝公より祈禱所と定められていました。徳川家康が関東入国した翌年の天正19年(1591)には社領2石の御朱印状を受領、徳川家康が中原御殿に宿泊の際には当社へ参拝したことに因み、東照宮を奉斎、また神宝を数多く所蔵しています。明治維新後の明治6年に稲荷社、日枝社を合祀し、片岡神社と改称、村社に列格していました。
社号 | 片岡神社 |
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祭神 | 別雷之命、豊受比売之命、大山祇之命、天彦火瓊々杵命 |
相殿 | - |
境内社 | 浅間神社、東照宮 |
祭日 | 例大祭4月29日 |
住所 | 平塚市片岡1241 |
備考 | - |
片岡神社の由緒
片岡神社は、京都下加茂社を勧請して永承2年(1047)に創建したと伝えられ、鎌倉幕府成立頃より雷電社と称され、北條雅子の出産に際しては源頼朝公より祈禱所と定められていました。徳川家康が関東入国した翌年の天正19年(1591)には社領2石の御朱印状を受領、徳川家康が中原御殿に宿泊の際には当社へ参拝したことに因み、東照宮を奉斎、また神宝を数多く所蔵しています。明治維新後の明治6年に稲荷社、日枝社を合祀し、片岡神社と改称、村社に列格していました。
新編相模国風土記稿による片岡神社の由緒
(片岡村)
雷電社
村の鎮守なり、當社は下加茂の社を寫し祀る所にて、勧請の年代は傳へざれど、鎌倉将軍の頃は前記の社と稱し、祈禱を命ぜられしと云傳ふ、建暦二年八月當社を以て、鎌倉将軍の祈禱所と定めし事【東鑑】に見ゆ(曰、八月廿二日、相模國片岡前記等社事、可爲将軍家御祈禱之由、今日被定之、圖書允奉行之、)祭神天彦火瓊瓊杵尊、神躰は座像(長八寸、)と云傳ふるのみ、開闢する事なし、本地十一面觀音、是も開闢せず(木にて圓鏡の如く作り、其内に彫刻すと云、)例祭八月九日、社領二石の御朱印は天正十九年賜ふ、拝殿あり、
△鐘樓、寛永六年の鑄鐘をかく、
△東照宮。御入國の頃當社神主屋鋪内に御床几を居させられ、御休息あり、御他界の後、其所に御宮を建立せしが、屋鋪内に置奉る事恐ありとて、文化七年本社の北、山上に石祠を造立し移し奉り、舊地には法華經一部(一石の一字を書寫す)を埋め、上に供養の碑を建、
△末社。牛頭天王
△神主宮河丹後。吉田家の配下なり、先祖丹後家嗣(齢百六歳、明暦二年正月八日死、)より代々神職を勤むと云、今菱御紋付御茶碗一口を蔵す(神祖御休息ありし時の賜物と云傳ふ、)
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山王社
村持、下同、
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石神社
稲荷社 (新編相模国風土記稿より)
神奈川県神社誌による片岡神社の由緒
永承二年(一〇四七)九月下加茂社より勧請し創立する。鎌倉将軍の頃より雷電社と称し、政子安産祈願などが斎行され、片岡の鎮守として栄えた。建暦二年(一二一二)八月二十二日、鎌倉将軍の祈禱所と定めた。吾妻鏡に「相模国片岡前記等社事、可為将軍家御祈禱之由、今日被定之図書允奉行之」と記されている。神体は木座像八寸あり開闢を禁じている。当社は山頂にあって落雷の集中点になるので、被雷除鎮護の神として住民の神徳深く、多くの伝説がある。承応二年(一六五三)六月落雷を被り再建された。天正十九年(一五七三)十一月社領三石の御朱印を賜られる。東照宮御入国中原御殿に宿泊の節、当社に参拝、神主屋鋪内に御休息今も遺品が多く残存している。東照宮御他界の後、その所に御社を建立したが文化七年(一八〇八)本社北山上に石祠を建て移す(相模風土記・中郡誌)。
明治六年七月雑社稲荷社、日枝社を合わせて、片岡神社と改称し、村社に列せられる。なお当社は信徒多く、神道墓地が多数存在する。(神奈川県神社誌より)
片岡神社の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 神奈川県神社誌