三浦義村田村ノ館の碑|三浦義村の山荘跡地
三浦義村田村ノ館の碑の概要
三浦義村田村ノ館の碑は、平塚市にある名所旧跡です。三浦義村田村ノ館の碑は、鎌倉幕府の有力御家人三浦義村の山荘跡地と伝えられる当地に、昭和35年市営住宅が建設されることになったことから、館跡地が消えることを惜しんだ地域住民が跡地を市に寄付、石碑を建立したといいます。新編相模国風土記稿では、三浦義村の山荘跡地について、第4代将軍藤原頼経が遊興に訪れたこと記載、江戸期には当地村民の宅地となっていると記しています。
名称 | 三浦義村田村ノ館の碑 |
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区分 | 史跡 |
入場時間 | - |
入場料 | - |
住所 | 平塚市田村7-21 |
備考 | - |
三浦義村田村ノ館の碑の由緒
三浦義村田村ノ館の碑は、鎌倉幕府の有力御家人三浦義村の山荘跡地と伝えられる当地に、昭和35年市営住宅が建設されることになったことから、館跡地が消えることを惜しんだ地域住民が跡地を市に寄付、石碑を建立したといいます。新編相模国風土記稿では、三浦義村の山荘跡地について、第4代将軍藤原頼経が遊興に訪れたこと記載、江戸期には当地村民の宅地となっていると記しています。
境内石碑による三浦義村田村ノ館の碑について
誌
この附近一帯は三浦平六義村氏の館跡と伝えられています。市はここに昭和三五~三七年に木造平屋建九五戸を建設しました。その当時田村の皆様は由緒ある館跡地が永遠に消えることを憂慮されこの敷地の一部でも後世に伝えたいと「由縁の碑」及び館跡地の一部二八一平方米(八五坪)を市に寄附され、市は田村館跡地として管理してきましたが、その後昭和五六~五八年に木造住宅を中層耐火構造住宅に建て替えした時、この事業に伴い寄附当時の位置から北側に若干移設し現在のように整備したものです。
平成元年四月吉日 平塚市(境内石碑より)
新編相模国風土記稿による三浦義村田村ノ館の碑について
(田村)
三浦義村山莊蹟
小名馬場の北、八王子往来の東側に堀及土居の蹟とおぼしき所(村民五郎兵衛と云者の宅地なり、)あり、其邊四町許の所、義村山莊蹟と云傳ふ、承應二年四月、義村當所より、鎌倉に歸参の事、【東鑑】に見ゆ(曰、四月廿九日、駿河前司義村、去夜自田村歸参、今日献盃酒於若君御方、)安貞二年七月、将軍賴經、此山莊に来り、三日逗留、是田家の秋興を遊覧の爲なり、(注釈)
嘉禎二年三月賴經止宿あり、 (注釈) (新編相模国風土記稿より)
三浦義村田村ノ館の碑の周辺図