松雲山要法寺。開基平塚左衛門尉泰知
要法寺の概要
日蓮宗系単立寺院の要法寺は、松雲山と号します。要法寺は、北條泰時の二男と伝えられる平塚左衛門尉泰知の邸宅(当地)に、日蓮上人が弘安5年(1282)止宿し説法、平塚泰知(松雲院日慈上人)は邸宅を日蓮上人に寄進、日蓮上人を開山として創建したといいます。慶安2年(1649)には寺領8石の御朱印状を江戸幕府より受領していました。
山号 | 松雲山 |
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院号 | - |
寺号 | 要法寺 |
本尊 | 三宝祖師像 |
住所 | 平塚市平塚4-10-10 |
宗派 | 日蓮宗系単立 |
葬儀・墓地 | 要法寺会館 |
備考 | - |
要法寺の縁起
要法寺は、北條泰時の二男と伝えられる平塚左衛門尉泰知の邸宅(当地)に、日蓮上人が弘安5年(1282)止宿し説法、平塚泰知(松雲院日慈上人)は邸宅を日蓮上人に寄進、日蓮上人を開山として創建したといいます。慶安2年(1649)には寺領8石の御朱印状を江戸幕府より受領していました。
境内石碑による要法寺の縁起
日蓮九聖人御一泊御説法霊場
松雲山要法寺縁起
当山は鎌倉時代、幕府の執権北条泰時の次男北条泰知の屋敷でありました。
泰知は日蓮大聖人に帰依し、平塚左衛門尉泰知と呼ばれ人々に尊敬され、この地において地頭をしていました。弘安五年九月八日未明、泰知は夢枕に「日蓮聖人が十六日平塚にご来臨される」という七面天女のお告げを受け、平塚の主だった人々百六十余名と共に日蓮聖人を出迎え、この地にご宿泊をいただきました。
その夜日蓮聖人が法華経神力品「四句要法」の一説を御説法したところ、邸内にあった平真砂子の塚(平塚の塚)にそびえ立つ老松に紫雲がたなびくという瑞相があらわれました。
それを見た一座の面々は、お題目を唱和し法華経の信者になったのでした。
わけても泰知は深く感動し、自らの館を献上して寺とし、日蓮大聖人より「紫雲の瑞相」にちなみ「松雲山」一夜説法「四句要法」にちなみ「要法寺」との山号と寺号をいただき当山は開山されました。
時に弘安五年(一二八二年)九月十六日
日蓮大聖人御入滅、二十数日前の事でした。
開祖日蓮大聖人
二祖九老僧形善院日澄上人
三世開基松雲院日慈上人(平塚左衛門尉泰知)(境内石碑より)
新編相模国風土記稿による要法寺の縁起
(平塚新宿)要法寺
松雲山と號す、法華宗(身延久遠寺末)此寺地は古平塚左衛門尉泰知入道松雲(寺傳に泰知は北條泰時の二男なりと云、されど大系圖等に所見なし、)の宅地にて弘安五年九月十六日宗祖日蓮、此宅に止宿し、説法せし舊蹟なり、松雲もとより當宗歸依の人なれば、宅地を日蓮に與へて當寺を起立せり、故に日蓮を開山とす、中興開山日新(慈雲院と號す、文禄元年八月十一日卒、)慶安二年八月先規に因て寺領八石の御朱印を賜ふ、本尊三寶諸尊を置、
七面社。
鐘樓。鐘は寶暦二年鑄造して、神寶とせし由銘文に載す
稲荷社
天神社
鬼子母神社
塚。七面社の邊に在(高五尺許、)上に松樹(二圍許)一株あり、土人の傳に高見王の子、政子の塚にて地名の起る所是なりと云う(新編相模国風土記稿より)
要法寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 「日蓮宗系単立寺院大鑑」