蓮性山宗信寺。三郡共立学校開校の地
宗信寺の概要
日蓮宗寺院の宗信寺は、蓮性山と号します。宗信寺は、森蘭丸の一族森播磨守吉秀(元和9年1623年卒)が開基となり堂宇を建立、本妙院日了が開山したといいます。明治19年には大住・淘綾・足柄上郡による三郡共立学校(平塚農業高等学校の前身)が当寺本堂を校舎として開校しています。
山号 | 蓮性山 |
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院号 | - |
寺号 | 宗信寺 |
本尊 | 一塔両尊 |
住所 | 平塚市南金目2336 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
宗信寺の縁起
宗信寺は、森蘭丸の一族森播磨守吉秀(元和9年1623年卒)が開基となり堂宇を建立、本妙院日了が開山したといいます。明治19年には大住・淘綾・足柄上郡による三郡共立学校が当寺本堂を校舎として開校しています。
新編相模国風土記稿による宗信寺の縁起
(南金目村)
宗信寺
蓮性山と號す(本寺前に同、)慶長十年起立、開山日了(元和三年三月朔日卒、)開基森播磨守吉秀(元和九年六月十九日死、法名蓮行院法健日宗、今子孫村民にあり、)本尊三寶祖師、本山二十五世、日暹が書せし曼荼羅(寛永七年五月十三日授與之、相州大住郡金目郷、蓮性山宗信寺、常住本尊也、新地修造之檀越、播磨守蓮行院日宗と裏書あり、)一軸を寺寶とす、
七面堂(新編相模国風土記稿より)
宗信寺所蔵の文化財
- 三郡共立学校発祥の地
三郡共立学校発祥の地
明治十九年(1886年)宗信寺本堂を仮校舎に大住・淘綾・足柄上郡の三郡共立学校は誕生しました。学科は英、漢、数の三教科で、特に英語教育に力が注がれた三年制の学校でした。
明治二十六年、生徒が増えたため金目小学校の旧校舎に移り、二十九年には大住郡、淘綾郡の合併により二郡共立学校と改称。三十一年には足柄上郡の脱退により校名を中郡学校と変更し、法伝寺東側に移転しました。三十五年には農業科を新設し中郡農業学校となりました。明治四十二年には現在の達上ヶ丘の地に県立移管して平塚農業高等学校となりました。
廃校となった中郡農業学校の校舎は明治四十二年、私立育英学校として開校し、その後奈珂中学校を経て現在の秦野高等学校となりました。
宗信寺には相模俳壇で活躍した花昌亭百亀(六代目森文右衛門)や森鑅三郎(鶴汀)が眠っています。
四五日の 今は大事と 菊の花(百亀)
散るはなを かるふせおふて 春のたび(鶴汀)(平塚市掲示より)
宗信寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿