上行寺。西山本門寺第十三世妙円坊日春上人が開基、芝二本榎
上行寺の概要
日蓮宗寺院の上行寺は、冨士山と号します。上行寺は、旧本門宗本山西山本門寺第十三世妙円坊日春上人が開基となり永禄10年(1567)小田原に創建、慶長元年(1596)に江戸桜田へ移転、その後寛文8年(1668年)芝二本榎へ移転したといい、昭和38年に当地へ移転したといいます。上行寺には、赤穂浪士の一人大高源五忠雄とも親交があったという俳人宝井其角、小説江戸双紙坂崎磐音にも登場する蘭学者桂川甫周などの著名人墓所が残されています。
山号 | 冨士山 |
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院号 | - |
寺号 | 上行寺 |
本尊 | 日蓮聖人像 |
住所 | 伊勢原市上粕屋875-1 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
上行寺の縁起
上行寺は、旧本門宗本山西山本門寺第十三世妙円坊日春上人が開基となり永禄10年(1567)小田原に創建、慶長元年(1596)に江戸桜田へ移転、その後寛文8年(1668年)芝二本榎へ移転したといい、昭和38年に当地へ移転したといいます。
境内掲示による上行寺の縁起
当山は、永禄十年(一五六七年)旧本門宗本山西山本門寺第十三世妙円坊日春上人により、相模の国小田原花木の地に開創せられ富士山上行寺と号す。
その後外護檀越の推移により慶長元年(一五九六年)には江戸桜田に移転したが、元和元年(一六一五年)には御用地となった為八丁堀銀座の地に、寛永十二年(一六三五年)には港区芝伊皿子、寛文八年(一六六八年)芝二本榎、昭和に至り三八年伊勢原に移転す。寺には、俳人宝井其角、初代将棋名人大橋宗桂、蘭学者桂川甫周、由井正雪の乱の宝蔵院流槍の名人丸橋忠弥の墓地がある。(境内掲示より)
「芝區誌」による上行寺の縁起
上行寺 二本榎本町二十七番地
本門宗駿河富士郡西山本門寺末で、富士山と號する。永禄十年相州小田原花木に創立し、慶長元年櫻田に移つたが、元和元年其地が御用地になつた爲め八丁堀に代地を受領し、更に寛永十二年芝伊皿子に轉じた。寛文八年火災に罹つて焼失したので、現在の地へ堂宇を建て、今日に至つた。開山は僧日春である。寺内には有名な墓が多い。本寺の門前に二株の榎があり、それから二本榎町名の出たことは、本編第三章に詳記する。(「芝區誌」より)
御府内寺社備考による上行寺の縁起
駿河國冨士郡西山本門寺末 芝二本榎
冨士山上行寺 境内拝領地二千百五十四坪五合五勺年貢地八百九十坪内門前町屋有之
往古相州小田原ニ起立天正十四年北條氏政より今ニ取持仕候處小田原ニ而起立之年代相知不申候江戸起立之儀慶長元丙戌年於桜田寺地拝領仕候、元和元年右寺地御用ニ付召上於八丁堀替地拝領仕處寛永十二乙亥年又被御用地ニ相成高縄上町伊皿子ニ而替地拝領仕候、寛文八戌申年類焼仕候松原新太郎殿と替地仕当所に引移申候。
開基日春本寺十三世慶長十六亥年八月廿日卒。
中興開基日順本寺十八世俗称千葉承之末孫之由元禄元戌辰年十月廿日卒。
客殿、三間ニ八間。本尊宗法之通。豊姫君様御尊牌、御厨子入。御法号妙敬日伝尊儀。右之、文照院様姫君ニ而天和元癸酉年十月廿一日御逝去当寺に御送葬御座候儀を御廟所之條ニ書上申候。
寺寳。
法華経之内壽量品一巻。
制札一通。(略)
御膳具一具。
御徳利二口。葵御紋付。
御重箱一合。同前。
御打掛大小三枚。
鐘楼。(略)
豊姫君様御廟所。御石碑石玉垣。(略)
位牌堂。土蔵造三間ニ五間。
鎮守社、一間四方。八幡宮神体木札。右類焼後未再建仕候。
呉宗観墓。(略)
塔中。
大乗坊。開基本寺十九世日教當寺八世ニ御座候寛文十一亥年起立仕候延宝五丁巳年三月十九日卒。
久成坊。開基当寺十二世日實正徳元卯年十月起立仕候
以上二坊追従後未再建仕候
以上戌子書上(御府内寺社備考より)
上行寺所蔵の文化財
上行寺には、数多くの著名人墓所が残されています。赤穂浪士の一人大高源五忠雄とも親交があったという俳人宝井其角、小説江戸双紙坂崎磐音にも登場する蘭学者桂川甫周、の他、初代将棋名人大橋宗桂、由井正雪の乱の宝蔵院流槍の名人丸橋忠弥の墓地があります。
- 宝井其角墓
- 桂川甫周墓
- 丸橋忠弥墓
- 大橋宗桂墓
上行寺の周辺図